沿道での酒井さん(55歳/昭和51年当時)

 平成18(2006)年、故 酒井要さん(東京都)の『歩行帳』とスクラップブック(新聞切り抜き)が寄贈されました。
酒井さんは昭和19(1944)年、中国で戦車の下敷きになり右脚大腿部を切断されました。支給された義足を戦後も使っていましたが、使い勝手の悪さと旅先で足の不自由な子どもが体に合わない義足を使っているのを見て奮起。全国の足の不自由な人のために3年をかけて、義足を開発しました。昭和50(1975)年のことです。
「人足機」と名付けた義足は、足首が前後左右に動き、膝も柔らかく足が自然に前に出るように工夫がされていました。
人足機を装着して都内で歩行試験を行った後、昭和51(1976)年、酒井さんは鹿児島へ向かいます。そして、人足機の機能・耐久性を実証するために鹿児島市役所前を出発、東京まで約2000キロの道のりを歩きました。要した日数は174日、歩数は354万2610歩に及びます。
 『歩行帳』には、毎日の出発と到着の時間を記録するとともに、実際に歩いたことを証明するために沿道の各市町村の皆さん約1000名の著名も集めています。また、スクラップブックには、酒井さんの挑戦を伝える多くの新聞記事が残されています。
酒井さんは、多くの人に人足機を使ってもらうため、特許取得を目指していたようですが、残念ながらその目的は果たせなかったようです。しかし、自ら考案した義足で2000キロの距離を「歩破」したことは紛れもない事実です。『歩行帳』の文末は、次のように締めくくられています。

「虎は死して皮を残し 私は死して人足機を残す」

 酒井さんのこと、そして酒井さんの人足機についてご存じの方は、ぜひ当館までご連絡ください。

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2014年