ホーム/ 内容紹介/ DVD Vol.2
内容紹介

当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。

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S2−1

母に支えられて… (30分50秒)

 昭和19年、17歳で陸軍兵站部の事務員となり、翌年4月23日、沖縄南風原(はえばる)での負傷で右腕を失う。更に6月、退避していた壕内に投げ込まれた黄燐弾で、顔面と足に火傷を負う。終戦後、生きる気力を失い反抗の日々を送る証言者を涙で諭した母。偶然見つけた沖縄厚生園の保母募集の新聞記事が、その後福祉一筋に働いた人生の端緒となった。

S2−2

療養所は大きな家族 (9分53秒)

 昭和16年10月、中国河南省にて作戦従事中、銃撃被弾して城壁より落下し下半身麻痺となる。内地に還送され、臨時東京第一陸軍病院を経て、18年6月、傷痍軍人箱根療養所に入所。以来、今日まで同所にて療養生活を送る。21年、結婚。GHQの占領政策下、軍人恩給が停止され苦しい生活を所内での竹細工作りと生活保護とで切り抜けた。療養所は支えあい助けあう大きな家族だったと、夫人はしみじみ述懐。

S2−3

生と死に向かい合った2時間 (9分25秒)

 昭和18年3月、予科練習生として飛行訓練中墜落事故により右足を負傷し、1年間の入院生活を送る。ブーゲンビル沖海戦に仲間が飛び立つのを焦燥感をもって見送る。19年11月、傷も癒え原隊復帰、サイパン特別銃撃決死隊の偵察機に搭乗。帰還の術無い同隊12機を引率し見守った辛さは言い難い。昭和40年頃、自分が写っている「第一御盾特別攻撃隊」と記された写真に出会い、隊員の消息調査を決意、漸く「甲飛八期のあゆみ」を上梓した。

S2−4

見た目はなんでもないが…  (9分28秒)

 昭和19年4月、南方のパラオへ転進。20年5月、大発(上陸用小型船)に乗船してペリリュー島へ向かう途中、敵機2機の攻撃を受け受傷。褌で止血し1キロ泳ぎ救助された。内地へ還送され高崎陸軍病院へ入院。栄養失調で痩せ衰えていたため見舞いに来た家族は、本人に気付かず探した程哀れな姿だった。両手の機能障害は日常生活や農業に多大な支障があるが、一見、健常者と変わりないので理解してもらい難い。

S2−5

二人三脚で六十年余り (9分25秒)

 結婚後、間もなく入営。昭和19年、満洲において戦車壕作戦中、次第に右足の感覚が鈍くなり医務室受診。ハイラルでの入院生活を経て20年3月、松葉杖姿で内地に帰還。入院中に終戦となり退院し帰郷。21年3月、国立相模原病院(旧東京第三陸軍病院)で右足切断手術を受ける。将来への不安が膨らむ中、社会復帰に向けジュラルミン製の義足をつけ歩行訓練に励んだ。義足には通気性がないため、注意を怠るとむれて皮膚が破れ、義足を着けることができない。汗取りのため常に靴下の替えを持ち歩いているという。片足でたずさわった仕事の辛さなどを語る。

S2−6

筆舌に尽くせぬ苦しみの日々 (9分54秒)

 昭和12年入隊、中国南京にて戦争の悲惨さを目撃。14年4月、八路軍との交戦で負傷。内地に送還され臨時東京第一陸軍病院入院。一時帰郷したとき、片足で歩行する姿を人目に晒し辱められた思いをした。また、家では幼子が父親の歩行姿を真似るのに情けない思いと怒りを覚えた。終戦の混乱の中、障害の身では食糧不足を補う買出しにも行けず、衣類を米に換えて凌いだ。受傷部位が結核菌に冒されカリエスを発症して闘病生活に戻る。竹串を突き通されるような痛みは筆舌に絶する。戦争は終わったというが傷痍者の痛みは今も続く。

S2−7

海軍少年電測兵15歳の受傷 (9分47秒)

 昭和19年1月、14歳で志願兵として海軍に採用。電測兵※として訓練を受けた後、和洋丸に乗船。20年3月、海南島から香港へ航行中、米軍機の機銃掃射により受傷。入院二日目、軍医から命を助けるためには右腕を切断しなければならないと告げられ同意する。終戦後、右膝の手術を受け歩行訓練に励んでいた。そんな時期、兄の結婚話が突然破談になり、原因は障害をもつ弟がいるためではないかと考え、20歳時に実家を出て自立を目指す。妻と巡り会い商売を軌道に乗せた。右腕を切断して60年にもなるが、今でも指先が動く様な錯覚にとらわれる。 ※ レーダーや電波探知機の操作を行う兵。

S2−8

二人で一人、傷痍軍人の妻として(9分52秒)

 昭和14年3月入営、満洲独立守備隊第六大隊に配属され満洲へ。8月、ソ満国境ノモンハンで部隊内の決死隊編成に志願、敵軍戦車を爆破し、その破片を全身に浴びて視力も失う。二度目の手術で左眼の視力やや回復。17年、結婚。妻は夫の目となり手足となる覚悟で結婚。いつでも生計を支えられるよう結婚当初から洋裁を学んだ。終戦後、夫は大阪に職を得て夫婦で転居。この頃、夫の顔、肩、胸から受傷時の体内残留破片が出るようになった。いつ失明するか不安な毎日、妻は再び夜間の洋裁学校に通い師範の資格を得た。人生終わりと思ったこともあったが、妻の支えで生きて来られたと語る夫。