S3-1初年兵の沖縄戦 (34分36秒)

昭和20年5月14日、入隊後すぐに右足を受傷(当時19歳)し病院壕に運ばれた。 戦況は次第に悪化し病院も退避することになったが、歩行できない患者は壕に残され、練乳と青酸カリが配られた。戦友に励まされ、這いながらの脱出行を決意。糸満までの道のりは長かった。

S3-2受傷の労苦と葛藤を超えて(箱根療養所) (9分43秒)

昭和12年5月、千葉県習志野の演習場で演習中、落馬により腰骨骨折、下半身・腰部麻痺となる。陸軍病院に収容されたが助かる見込みが無いと思われ、ほって置かれた。父や弟、同年兵の介護で病院生活をおくるが、排便には大変労苦をした。19年9月、傷痍軍人箱根療養所へ入所、以来、今日まで同所にて療養生活を送る。終戦後の食糧難の時代、所内で竹細工を作って生活費に充てた。月1回の温泉入浴を楽しみにしている。介護をしてくれた弟は21歳で戦死、自分は21歳で負傷したが元気でいる。人生の不思議を感じる。

S3-3生きる…それは死ぬよりつらかった (10分00秒)

昭和19年7月、駆逐艦に乗艦中、トラック諸島春島附近で空襲により両腕と左眼を受傷。生きる気力を失い何度も自殺を考えた。横須賀海軍病院を経て海軍軍医学校附属病院へ転院。同病院で多くの重傷患者と出会い生きる希望を得、リハビリ訓練を受けて社会復帰を目指した。21年10月、医師の薦めで手首を割って手指代わりにする手術を受けた。24年結婚。生活のため様々な職に就く。子供と遊べない辛さ、子供がいじめられるのを恐れて授業参観に行けなかった寂しさなどを語ります。

S3-4隻眼の人生 (9分55秒)

昭和17年5月、志願兵として横須賀海兵団に入団。19年9月、小笠原諸島父島にて退避命令により防空壕に退避中、直撃を受け埋没したところを救助され九死に一生を得る。医務室に運ばれ応急処置後、横須賀海軍病院に収容される。軍医学校附属病院に転院、眼球摘出手術や眉毛植毛手術など三度の手術を受ける。運転免許取得の労苦など義眼とともに暮らしたこれまでの人生を語ります。

S3-5飢え マラリア 受傷 (9分45秒)

昭和15年に召集され18年1月に召集解除となるも即日臨時召集されニューギニアへ。同地で二度の受傷。医療設備も医薬品もなく、消し炭を傷口に塗りつけ脚絆を包帯の代わりに巻いて行軍した。終戦まで飢えとデング熱、マラリアに苦しむ。 「衣食足りて礼節を知る」とは名言。どん底まで追い込まれた人間が何をしたか。帰国後、長期に亘り自宅療養を続け役場に職を得たが、戦争恐怖病、神経衰弱、マラリア再発などでまともな勤務はできなかった。また、後遺症のため常に眠気に襲われ、運転免許も取得できなかった。22年に結婚した妻は既に他界。支えてくれた妻には感謝してもしきれない。

S3-6失明の恐怖とシベリア抑留 (8分38秒)

昭和19年10月、千島列島の小島シムシル島(新知島)で敵の投下爆弾により受傷。軍医から左眼回復の見込みなしと告げられる。占守島で終戦を迎えシベリアへ抑留される。厳寒の中、強制労働に従事、右眼も視力乏しくなり医務室を受診。左眼摘出するも右眼の視力戻らず失明。21年末、帰国。東京の国立光明寮に入所し鍼灸を学び、26年、職を得る。同年結婚。 失明により変わってしまった人生、年老いた両親の悲しみを思いやる。

S3-7家族までもが戦禍に (9分55秒)

昭和5年、甲府第百四十一聯隊に入隊。上海に派遣されウースンクリークで戦闘に参加。水浸しとなった衣服が防弾効果を発揮し一命を取り留め帰還。皮肉なことに、二度目の召集で甲府在勤中、20年7月7日、空襲に遭い頭と左手を負傷。同空襲で子供3人と母が死亡した。障害の不自由さを理解しない人から心ない言葉を浴びせられ悔しい思いもした。家業は米屋であったが左手は用をなさず右手だけで米を詰めるのに難儀した。

S3-8衛生兵の受傷 (9分39秒)

第四特別陸戦隊衛生隊に属し南方各地に従軍。ガダルカナルのジャングル内では、食糧、医薬品ともに欠乏し栄養失調、マラリアに罹患。内地還送後、再び戦地へ。昭和19年9月、レイテ沖で敵機の爆撃により左足負傷。胸に巻いたサラシで止血し這って逃げた。帰還後、21年4月、京都日赤病院で左下腿切断手術を受ける。義足は蒸れやすく、蒸れると断端部の皮膚が剥け義足の装着が困難となるため、靴下を持ち歩き頻繁に取替え対処している。このような生活が切断以来ずつと続いている。

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