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内容紹介

当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。

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S4−1

ひめゆりの悲劇 (32分39秒)

 昭和20年3月、師範学校女子部3年在学中に動員を受け、看護婦生徒として沖縄陸軍病院(南風原)に勤務。戦況が悪化し病院は南部の壕へ撤退。米軍に囲まれた中で解散命令が出され、先生と生徒は懸命な退避行を余儀なくされた。6月21日、壕内に打ち込まれたガス弾で左膝を砕かれた。無為に過ごした戦後の日々に父が与えた一本の杖。恩師の勧めで足を引き摺りながら37年余、教壇に立ち続けた。

S4−2

暖かい支援にささえられて (9分55秒)

 昭和12年10月、中国山西省での戦闘で脊髄を損傷し下半身麻痺となる。内地に還送され東京第一陸軍病院に入院。16年、親身に治療を続けてくれた軍医から傷痍軍人箱根療養所への入所と温泉療養を勧められ、帰郷を断念して入所を決意。16年11月兵役免除となり療養所へ入所。以来、今日まで同所において療養生活を送る。所内でのサークル活動、短歌が縁で結婚した妻への思いなどを語ります。

S4−3

厳しい訓練も今となれば  (9分36秒)

 昭和15年、召集。17年、パラオからニューギニアへ転戦し同地で右腕を受傷。内地へ向かう輸送船に便乗して帰還。臨時東京第三陸軍病院に収容され厳しい生活訓練を受けた。退院し元の製材所へ復職したが、片手での仕事は苦労の連続であった。賃金だけでは生活が成り立たず、子供へクリスマスの贈物も出来なかったことはとても辛かった。そんな時、心の支えとなったのは趣味の盆栽。好みにあった盆栽の鉢を作ろうと始めた陶芸は納得できる作品を制作できるまでになった。

S4−4

馬とともに戦った戦場 (9分44秒)

 昭和19年1月入営、輜重隊※に配属され中支へ。同年9月、患者輸送の野営中、敵の迫撃砲により左眼を受傷。幸い患者に怪我はなく引き返して病院へ送り自身も入院。医薬品、食糧ともに不足する状況で満足に眼の治療を受けられないまま原隊に復帰。南京にて幹部候補生教育受講中に胸膜炎発病。奉天陸軍病院に後送され安東分院入院中に終戦となる。21年に復員。胸膜炎後遺症のため軽作業すら負担になる。妻には病弱であること、片眼失明していることを知らせずに22年、結婚。50年を経て眼痛発症し現在も続いている。
※ 弾薬、糧秣など軍需品の運搬に加え、衛生隊や野戦病院を含め輜重という。

S4−5

二度の撃沈、受傷、そして発病…… (9分49秒)

 昭和19年10月、重巡洋艦「愛宕」に乗艦、レイテへ向かう途中、敵潜水艦の雷撃を受け撃沈され九死に一生を得る。同月26日、戦艦「大和」に乗艦、左舷見張台で見張り任務に就いていた時、敵機の爆撃を受け左足を受傷。受傷後、内地送還のため移乗した油槽船「明石丸」が撃沈され、流れ出た重油が海面を覆い火の海となる。死を覚悟した時、母の顔が目に浮かび「生きろ」という声が聞こえ必死で生き延びた。が、帰国後、肺結核を発病し働き盛りの32歳から43歳まで11年間、入退院を繰り返した。治療薬ストレプトマイシン購入のため財産を使い果たした経済的苦労。受傷、発病に加え死の淵を見た二度の撃沈体験を語ります

S4−6

死の瀬戸際で過ごした1年間 (9分55秒)

 昭和17年、甲府四十九聯隊に入隊し満洲へ。翌年、転属した部隊は南方のグアム島へ。19年7月、米軍上陸の戦闘で右眼を受傷(右眼失明)。衛生兵の手当を受けただけで部隊は離散、治療は受けられなかった((注)19年8月、グアム島守備隊玉砕)。島内のジャングルに潜み1年間逃避生活を送った。米軍収容所から迎えがきて終戦を知る。復員(帰国)し帰郷したが実家へは既に死亡公報が届いていた。

S4−7

負けてたまるか! (9分33秒)

 昭和18年5月、中国湖南省にて作戦遂行中に受傷。救命のため、軍医から右足切断を告げられやむなく受け入れる。内地に送還され臨時東京第一陸軍病院にて鉄脚(当時、義足は鉄製であったためこう呼ばれた。)装着による片足行軍などの厳しいリハビリを受け、左足が鍛えられた。25年結婚。負けず嫌いな性格から、健常者と変わりない生活を心掛けているが、これも、妻の支えがあってこそ可能。妻は、右足切断の夫を気遣い常に右側に立ち支えられる態勢をとっているという。

S4−8

義足で、田んぼでも畑でも働いた(9分55秒)

 昭和17年入隊、中支へ。18年、迫撃砲弾を受け右足受傷。一週間後、病院長から切断することを告げられる。南京陸軍病院で治療後、内地送還。臨時東京第一陸軍病院に入院しリハビリに励む。一本足で生きる覚悟をするが、退院して帰郷、一人になった時には淋しかった。20年、結婚。農協に勤めたが27年に退職し農業に従事。義足での農作業は苦労の連続であった。義足の耐用年数は3年といわれているが、作業で汗をかくため1年程度で使用できなくなった。妻の献身に支えられて続けてこられた。