館だより
 
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第15号 2007年8月1日
〜新着証言映像 紹介3「戦傷病者の労苦を語り継ぐ」〜

■「傷痍軍人の妻として」(11分56秒)

戦争中に結婚した傷痍軍人の妻の対談映像です。一人は昭和17年8月に中国で右眼を負傷し失明しました。その後、大阪の陸軍病院で療養中、看護婦をしていた現在の妻と出会い、翌18年に結婚しました。もう一人は、昭和19年12月、フィリピンにて右足を負傷し、昭和19年に現在の妻と見合い結婚をしましたが、すぐに戦地に赴いたため、結婚後初めて顔をあわせたのは、負傷後の入院先の病室でした。その後の生活の苦労を2人で語ります。

■「字を書く手を受傷して」(10分50秒)

昭和18年に学徒出陣で海軍に入団し、20年2月23日、小笠原諸島父島で米軍の空襲を受け機銃弾により右手と右足を負傷しました。直ちに近くの壕の野戦病院で治療を受けましたが、内地に還送され病院で硬直した手足のリハビリに励みました。その後、利き手の障害を克服し、戦後は新聞記者として活躍しました。リハビリの苦労と戦後の新聞記者生活での苦労を語ります。

■「衛生兵ゆえの感染」(11分01秒)

昭和18年9月、衛生兵としてスマトラの患者療養所に勤務中、その時の結核患者の世話で自らも結核に感染する体験をしました。終戦後、復員したものの戦後の食料難の影響で病院での食事も不足し、結核の症状は進行する一方でした。一時は死を覚悟したものの、手術で肋骨6本を切除し、ようやく命をとりとめました。しかし、肺活量が少ないせいで、その後の仕事や生活で苦労しました。戦後まもない頃の結核の闘病生活の苦労と帰郷後の家族の再会の様子を語ります。

■「伸びきった最前線での受傷」(11分13秒)

 昭和17年2月に現役入隊し、陸軍の歩兵として中国での警備と戦闘にあたりますが、その後の作戦では補給がないまま行軍を続けました。20年5月、中国湖南省で敵に狙撃され下顎骨貫通銃創の怪我を負い、すぐに後送され治療を受けましたが、舌を負傷したため、療養中は、食べ物はおろか水も飲めず苦労しました。今でも敵に追われる夢を見ることがあるといいます。戦中の行軍の苦しさと受傷の様子を語ります。

雑のう

受傷時の雑のう(証言映像中の画像)

■「衛生兵のビルマ戦線」(21分38秒)

陸軍衛生兵として南方に送られ、負傷兵を助けながらも自らも3度の負傷を体験しました。ビルマでの3度目の負傷の後、転進命令を受け数日間の退避行の末、プノンペンの兵站病院にたどり着き治療を受けました。一方で日本では、彼のいいなづけであった妻は、当時、寺で寒行をするなどして無事を祈っていました。その戦時中のお互いの体験や思いを夫婦で語ります。

■「親指が支えた人生」(10分18秒)

海軍機関兵として駆逐艦綾波に乗艦中の昭和18年3月、艦内の発電機の点検中に右手を巻き込まれ親指以外の指を失う事故に遭遇しました。利き手の指を失ったため、その後は仕事を転々として苦労しましたが、戦後は木工職人として生計を立てました。戦後の仕事の苦労と、子供との想い出を語ります。

■「受傷した身に召集が」(10分08秒)

昭和17年2月に現役入隊し、中国北部で初年兵教育を受けた後、警備と掃討作戦に従事しました。その折り、同年11月、思わぬ天候の急変で凍傷にかかり、左指3本の切断手術を受けました。その後、現役免除となり退院、結婚に至りますが、終戦直前に傷痍軍人となった自分にも召集がかかり驚いたと語ります。負傷前は市電の車掌をしていましたが、指を切断したためその復帰はあきらめ、戦後は菓子屋を営み生計を立てました。