本展では、約100点の資料を、5つのコーナーに分け、9組の戦傷病者ご夫婦について紹介します。

※資料提供者名には敬称を省略しています。

 
 
※資料提供者名には敬称を省略しています。

まだ若く将来を夢みていた20歳代で、戦地で足を負傷して義足の生活を余儀なくされた戦傷病者のみなさん。
「戦後いちばん嬉しかったことは何ですか?」と伺うと、「妻の支えと自動車の免許取得がうれしかった」というお返事が印象的です。また、義足をつけて自転車通勤する方もいらっしゃいました。移動が困難になることは、生活範囲も狭めることにもなります。それらの労苦を乗り越えた皆さんのお話に耳を傾けながら、実際に使用した「義足」に触れてみて、それぞれの違いを実感してください。

写真「結婚式」 昭和18年1月18日
香川県 野角 敏幸
傷痍軍人と知りながら結婚。
傷の痛みがひどく、
飲酒で気分を紛らわすしかなかった。
 
写真「夫婦で、ともに生きて」 平成20年
福島県 遠藤 今朝三
戦後、足が不自由な夫とともに、妻も精一杯に働いた。
     
義足 昭和30年代
香川県 野角 敏幸
農作業で使用。軽くて、田畑の土に埋まっても抜き取りやすい。
 
義足 平成18年
国立障害者リハビリテーションセンター

突然、あなたや家族の眼が見えなくなったら、明日からの生活はどうなるか、想像できますか。戦地で負傷したため眼が不自由となり、『まさか結婚できるとは思わなかった・・・』と語る戦傷病者の夫。また、「失明の主人との生活、思い出しても涙がでます。はじめは、主人は光のないもどかしさに打ちひしがれる毎日、明日への希望もなく戦争ほど皆が不幸になるものはありません。それこそ二度と絶対に起こしてはいけない惨禍です。そんな思いをかかえて懸命に生きぬいた人です。」と、妻は振り返っています。
戦傷病者の妻は、夫を励まし、夫の眼になって日々の生活を支え続けました。

写真「結婚式」 昭和17年
埼玉県 菅 義美
当時、傷痍軍人は「白衣の勇士」と呼ばれて、澄子さんは家族から結婚を強く勧められた。お見合いで初めて出会い、2度目が結婚式。義美さんは“まさか結婚できるとは思わなかった”と振り返る。
 
写真「家族と一緒に」 昭和50年頃
香川県 横田 タツヱ
貞良さんは歌が好きでラジオやレコードを聴くことが楽しみだった。孫が生まれたことを大変喜んでいた。
     
卒業證書
(文化洋裁女学院速成科夜間過程) 昭和23年
埼玉県 菅 義美
 
失明者用懐中時計 昭和18年頃
香川県 横田 タツヱ
失明者が文字盤に触れると時間がわかるように、
凸凹がある。また恩賜の刻印がある。

今ほど物資が豊富ではなかった昭和。衣服は、妻・母親・姉など家族の手作りが普通だったのです。
戦中に子どものために作ったもの、戦後に夫の身体に合せて作ったものなど、お金では買えない、唯一無二の資料といえます。これらの資料から、戦傷病者とその家族の、かけがえのない想い出と当時の生活について共感してください。

写真「夫婦で一緒に」 平成21年
茨城県 野上 行三
二人は同じ学校の教員だった。結婚のときは、みつさんの母親につよく反対された。
その理由は、みつさんが末っ子だったこと、片足の傷痍軍人と結婚すれば苦労するだろう・・・という心配から。
 
写真「療養中」 昭和34年3月1日
広島県 ア野 保己
肺結核は癒えず、 再発の為、入退院を繰り返した。
その後、左肺の摘出手術を受けた。
     
手作りの下着と型 戦後から現在まで
茨城県 野上 行三
当初は結婚に反対だった母親が、義足でもはきやすい下着を作ってくれた。そこから型をとり、今はみつさんが下着を作り続けている。
 
引き揚げ時の上着 昭和21年
広島県 ア野 保己
保己さんの浴衣を子どものオムツに、さらに上着に縫いなおしたもの。冨恵さんは終戦後、引き揚げのときに北朝鮮で長男を発疹チフスで亡くした。身体が冷たくなった子供を二晩抱いて寝たという。埋葬した場所 には行けないことが残念だと語る。

鈴木栄さんは、大正2(1913)年7月、富士郡須津村(現在は富士市)に生まれました。昭和9年1月20日、現役兵として静岡第34連隊第2中隊に入隊、青春時代の大半が軍隊生活となりました。昭和13年5月17日に、中国徐州にて第十二胸椎盲管銃創を負い、脊髄損傷となり、歩くことができなくなりました。結婚して以来、長年にわたって、夫の介護をしたのが、妻・不二子さんです。栄さんは、昭和62(1987)年12月25日、ご逝去されました(享年74歳)。家族のアルバムにあった写真と妻の証言から、戦傷病者ご家族が歩んだ足跡をたどってください。

「短歌」  戦後 
静岡県 鈴木 不二子
妻・不二子さんが詠んだもの。車の助手席に乗っているのが栄さん。
ドライブと入浴が気分転換だった。
 
写真「箱根療養所にて」 昭和17年ごろ
静岡県 鈴木 不二子
鈴木栄さんは右側。
 

漫画家・妖怪研究者として著名な水木しげる(本名・武良茂)さんは、昭和19年に南方ラバウルで左腕を失った傷痍軍人としても、広く知られています。
島根県の商家で生まれ育った布枝さんは29歳の時、東京都で貸本の漫画雑誌に執筆していた水木さんとの縁談を持ちかけられました。お見合いしたあとにすぐに結婚、東京都調布市での新婚生活は貧乏で、苦しく苛酷なものでした。
本コーナーでは、漫画への情熱で厳しい試練を乗り越えた夫とともに、それを支えに生きてきた武良布枝さんの人生を紹介します。

特別展示 水木しげるさん「義手」を、 7/1〜8/1に特別展示します。

 
 

初公開 証言映像 武良布枝さん
水木さんとともに歩んだ“ゲゲゲの女房”〜いつもそばにいてくれた〜