戦時中、傷病兵は内地還送後、陸海軍病院で治療を受け、身体機能の回復を目指す中で傷痍軍人によるスポーツ大会が行われ、退院(除隊)後は義手・義足などを付けて「再起奉公」に励みました。一方で脊髄損傷の傷病兵は車椅子での生活となり、症状固定後に専用の収容施設である箱根療養所へ搬送され、療養生活を送りました。
戦後イギリスでは、ルードビィヒ・グットマン博士の指導により、ストーク・マンデビル病院で昭和23(1948)年から脊髄損傷者による車椅子競技会が行われていました。日本では、グットマン博士の元に留学した中村裕博士が昭和36(1961)年に全国で初めて大分県身体障害者体育協会を設立、国際ルールに則ったスポーツ大会を開催し、身障者スポーツの振興と東京パラリンピックの開催に尽力しました。
昭和39(1964)年東京パラリンピックでは、第1部国際大会(脊髄損傷者及び下半身麻痺者)において日本代表選手53名のうち19名の選手が箱根療養所から出場し、2名の戦傷病者がメダルを獲得するほど活躍しました。続く第2部国内大会(車椅子選手を除く肢体不自由者、視覚・聴覚障がい者)においても数名の戦傷病者が出場しております。
本展では、戦時中に開催された傷病兵によるスポーツ大会や戦後の1964年東京パラリンピックの歴史を通じて戦傷病者が身体機能の回復・強化を目指す中でスポーツとどのように関わってきたのかを紹介します。