障がい者によるスポーツ大会と言えば、誰もがパラリンピックを思い浮かべるのではないでしょうか。そんなパラリンピックですが、実はある病院で開催された競技大会がその始まりとなっています。

これは、1964年東京パラリンピックの銀メダル(水泳)です。メダルには「TOKYO 1964」の文字が刻まれていますが、パラリンピック(PARALYMPIC)という文字はなぜか見当たりません。

その代わりにメダルには「STOKE MANDEVILLE INTERNATIONAL GAMES(ストーク・マンデビル インターナショナルゲームズ)」という文字が大きく刻まれています。これはなぜなのでしょうか。

ストーク・マンデビルとは、イギリスのロンドン郊外の地名です。このストーク・マンデビルの地には、この地名を冠した病院があります。

提供:社会福祉法人太陽の家

これがその病院、ストーク・マンデビル病院の写真です。

イギリスでは、第二次世界大戦中に多くの負傷者が出ることを見越して専門別に病院が設置されました。ストーク・マンデビル病院は脊髄損傷者を受け入れる専門病院でした。

この病院では、脊髄損傷のリハビリとしてスポーツを早くから取り入れていました。

提供:社会福祉法人太陽の家

その治療法を推し進めた人物がストーク・マンデビル病院の院長であったルードビィヒ・グットマン博士です。

グットマン博士は脊髄を損傷した患者に、「残された体を最大限に使う」ためにスポーツを勧めます。

昭和23(1948)年にはストーク・マンデビル病院で入院患者によるスポーツ競技会を開きます。その競技会は4年後には国際的な両下肢麻痺者によるスポーツ競技大会へと発展しました。

更に、昭和35(1960)年には、ローマオリンピックに続き同じ会場で開催される大会にまで発展しました。その大会は、国際ストーク・マンデビル競技会「STOKE MANDEVILLE INTERNATIONAL GAMES」と名付けられました。

東京パラリンピックの銀メダルに刻まれていた文字はこの大会の名称だったのです。

また、Paralympic(パラリンピック)という名称は両下肢麻痺者「Paraplegia(対麻痺者)」によるオリンピック「Olympic(オリンピック)」という2つの言葉をつなげて、東京大会の際につけられたとされています。

後に、パラリンピックと呼ばれる障がい者スポーツの国際大会はこのように始まりました。

一方で、当時の日本の状況はどうだったのでしょうか。

日本のリハビリテーションは欧米に比べて遅れていたため、ヨーロッパの身体障がい者スポーツの取り組みを専門家が視察しました。

ストーク・マンデビル病院を訪れた日本の関係者らはグットマン博士から、昭和39(1964)年に東京で開かれるオリンピックに続き、国際ストーク・マンデビル競技会を開催してほしいと要請されます。

しかし、その当時日本国内では、身体障がい者スポーツは関係団体が中心となり「身体障害者スポーツ振興会」を結成したばかりで、実質的な活動は行われていませんでした。

そんな中、昭和36(1961)年に大分県で全国初となる身体障がい者による体育大会が開催されました。

提供:社会福祉法人太陽の家

この大会の中心メンバーにはグットマン博士の元に留学した国立別府病院の中村裕博士がいました。中村博士は日本の身体障がい者スポーツの振興に尽力した人です。

中村博士が中心となって東京大会実現への取り組みを行ったことにより開催にこぎつけることができました。

さて、イギリスのストーク・マンデビル病院からパラリンピックが始まったことが分かりましたが、日本では脊髄損傷者を受け入れている施設はいつ頃からあったのでしょうか。

実は日本における脊髄損傷者専門の施設は日露戦争後に設置されました。

日露戦争で手足を失い、生活が困難な傷病兵を受け入れるための施設である廃兵院はいへいいんが東京予備病院渋谷分院の一画に設置され、その後巣鴨に移転します。

昭和期に入り傷兵院しょうへいいんと改称された後、昭和11(1936)年東京から現在の箱根に移転しました。

出典:「傷兵院要覧」

この写真は箱根に移転した傷兵院の本館の写真です。

さらに、日中戦争が始まってからは脊髄損傷の傷兵を受け入れる施設として傷痍軍人箱根療養所(以下:箱根療養所)が併設されました。

この写真は戦時中における箱根療養所の日常生活の写真です。

終戦後の箱根療養所は一般の脊髄損傷者にも開放され、国立箱根病院となり、独立行政法人国立病院機構箱根療病院として現在に至っています。

話は1964年東京パラリンピックに戻ります。

東京でのパラリンピックの開催が正式に決定されると、出場選手である脊髄損傷者及び下半身麻痺者を集める必要が出てきました。

脊髄損傷者を受け入れている施設から多くの選手が集められ、特に箱根療養所からは日本代表選手53名のうち19名もの選手が出場しました。

出場選手はケガをする前の競技経験や各大会に出場した際の記録などを基にして選ばれましたが、車椅子でのスポーツの経験などほとんどありませんでした。

この時点で開催まで1年を切っていましたが、選手たちは競技に向けた練習を始めます。

音声なし

これは箱根療養所で撮影されたパラリンピックに向けた練習の映像です。

音声なし

動画はフェンシング、卓球、アーチェリー、水泳などパラリンピックで開催される競技の練習を脊髄損傷者である箱根療養所の選手たちが行っているものです。

このように、パラリンピックは戦争によって負傷した脊髄損傷者による競技大会から始まり、やがて国際的な競技大会へと発展しました。日本においては、1960年頃から身体障がい者によるスポーツ大会が開催されるようになり、東京パラリンピックの開催に大きな役割を果たしました。