S13-1いつか花咲く日まで(19分5秒)
昭和19年6月8日、結婚1か月後、臨時召集された証言者は、独立自動車第三一九中隊に配属。バシー海峡をわたり、フィリピンのマニラへ。昭和20年8月1日、ルソン島マヨヤオの戦闘で、手榴弾の破片が左臀部を直撃。同年10月5日、米軍へ投降。戦後は、重労働がたたり傷口が悪化して二度にわたり手術を受けた。妻は夫の母親に「今は苦労しているけど、いつかは花咲いてきれいな桜の花が見られるから、がんばれ」と励まされて、家族で労苦を乗り越えた。
S13-2生まれ育った故郷(ふるさと)に恩返し(14分17秒)
昭和17年12月8日、独立混成第三旅団歩兵第七大隊第一中隊に編入。証言者が戦地で書いた遺書は、60数年経過した現在でもそらんじられるという。昭和19年9月12日、中国山西省忻県で右腕に銃撃を受けた。昭和21年5月、故郷に戻り結婚し、農業を継いだ。利き腕である右腕の傷が痛むために、妻に真綿を巻いてもらい、戦後の厳しい時代を切り抜けた。現在では、隈戸川ひまわりの植樹など、自分が生まれ育った故郷へ恩返しをしている。
S13-3負けない!これぐらいの傷(21分00秒)
昭和17年1月20日、証言者は現役兵として独立山砲兵第五十一大隊第二中隊に入隊。昭和18年11月20日、中国湖南省慈利県で、左腕に銃撃を受けた。傷口から膿がとまらず、内地還送を二度言われたが、「これぐらいの傷で内地に帰りたくない。部隊長に、『治ったら必ず帰ってこい』と言われた。」と断った。まだ農機具が機械化されていない戦後、稲刈りなどの農作業は左腕の傷は大きな障害になった。働き者の妻が、左腕に後遺症を抱える夫を支え続けた。
S13-4義足と妻に支えられて(23分35秒)
昭和14年3月、山砲兵第三十三聯隊第六中隊に転属。昭和16年5月8日、中原会戦に参加中、山西省曲沃県で受傷。臨汾の陸軍病院で右足の切断手術を受けた。内地還送となり、臨時東京第一陸軍病院で8ヶ月にわたる療養生活が始まった。戦後、足が不自由な夫とともに、妻も精一杯に働いた。証言者にとって人生で一番嬉しかったのは、自動車免許取得であった。次女は、様々な苦労を乗り越えた両親を、人生の目標として子供たちに語られるという。
S13-5二人三脚、商売繁盛(21分52秒)
昭和17年1月、南鳥島警備隊(海軍)に編入。昭和20年5月9日、大型米軍機による爆撃にあい受傷。島の医務室で左手と右足の切断手術を受けた。昭和21年4月、国立東京第二病院を退院して故郷に戻り、以前働いていた小間物屋商店に再就職。自転車に乗れるように練習して配達できるまでになった。一生懸命に商売に励み、念願の化粧品店を開店した。傷痍軍人であることを知りながら結婚した妻とともに、二人三脚で歩み続けた証言者は感謝している。