S16-1生きるにはこの道しかなかった(22分9秒)
昭和14年に秋に中国に渡り陸軍軍属として自動車の整備作業に従事。昭和17年、千葉県習志野の部隊に入隊したが、教育訓練中に右眼の異常を感じ、同年4月に入院。5ヶ月の入院生活の末、「回復不能」として原隊復帰。国内で自動車の操縦手などの任務に従事し終戦を迎えた。右眼はほとんど見えず、現在までその原因は不明である。軍隊での訓練中、眼が見えないことを申し出るまでの心の葛藤、その後の生活の苦労を語る。
S16-2熱砂の抑留生活(20分48秒)
昭和18年12月に現役兵として陸軍に入隊。翌年4月には幹部候補生教育のため満洲へ。その後、将校として中国北部の部隊に着任し、戦闘に参加していたが、昭和20年6月に満洲へ転進、その地で終戦を迎える。ソ連に抑留され約4年間の収容所生活を送る。昭和21年1月にはカスピ海沿岸近くのクラスノヴォドスクに送られ、以後、建設作業にたずさわるが、過労のため肺結核を発病。抑留中の生活や戦後の結核再発の苦労を語る。
S16-3思わぬ受傷で大きく変わった人生(18分35秒)
電力会社に勤めていたが、昭和14年に現役兵として陸軍に入隊。通信兵として中国山東省に配属。敵に包囲された部隊の応援に駆けつけた際に受傷。右腕を骨折、貫通銃創を受ける。内地に送られ、親指以外の右指の切断手術を受けた。帰郷後、昭和20年春に結婚したが、右手の障害のため、力仕事を伴う元の電力会社の仕事には戻らず、温泉の売店で働く。その後、発電所の保守係となり家族を支えた。負傷した時の状況や、その後の苦労、今の想いなどを語る。
S16-4すべてめぐり合わせと思って(21分56秒)
19歳の時に肺結核を患い喀血。療養生活の最中、徴兵検査を受け乙種合格。昭和16年に一度目の召集を受けたが、即日帰郷。快復し昭和17年から教員となったが、昭和19年6月に二度目の召集を受ける。今度は結核であることを隠して入隊。直ちに満洲に送られたが、到着した翌日に受けた検査で結核が判明したため、すぐに入院を命じられ、青森の療養所で療養中に終戦を迎える。結核であることを隠してまで入隊を希望した、戦争中の療養者の心の苦悩を語る。
S16-5極寒と酷暑の地で(18分56秒)
満州で幹部候補生教育を受けていたがソ連軍の侵攻を受け、満州で終戦を迎える。ソ連軍に抑留されシベリアの収容所では鉄道建設工事に従事。昭和21年6月に中央アジアのタシケントに送られ、農場の開墾作業等にたずさわっていたが、昭和23年7月、作業中にマラリアを発症。入院し同年秋に帰国。戦後、マラリアの再発で高熱性中耳炎を発症し手術を行うが、右耳失聴と味覚障害の後遺症が残り、現在に至る。長い抑留生活の苦労、帰国後のマラリアの後遺症の苦労などを語る。