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S18-1失ったものを嘆かず、残ったものを鍛える(19分07秒)

結婚後まもない昭和19年2月、召集により証言者は富山の東部第48部隊に入営する。この間、証言者は内地要員として富山に残り、初年兵教育にあたった。そして20年8月2日未明、富山大空襲のこの日、左足に小型不発弾が直撃する。後日、この時負った複雑骨折により、左足を膝下から切断することとなった。しかし、その後は辛い義足の装着訓練に耐え、再就職を果たす。失ったものを嘆かず、残ったものを鍛えるとは、証言者が生きるうえでの指針であったという。

S18-2九十四歳。おおいに語る傷痍の人生(19分55秒)

国鉄職員として働いていた証言者は、昭和12年1月に富山の歩兵第35聯隊に現役兵として入営した。その後、日中戦争の勃発と共に出征し、軽機関銃分隊の弾薬手として従軍した。12年10月14日、激戦のなか、中国江蘇省で右腕と右足に銃弾を受け、四人の戦友により野戦病院に収容される。内地還送の後、踵(かかと)を残して足の甲から先を切断する手術を受ける。しかし、この処置は義足を支える部位が少ないために痛みが絶えず、証言者を大いに苦しめた。その後、職場復帰を果たすが、雪道での通勤の困難により、役場に再就職する。義足での生活は、肉体的にも精神的にも様々な苦労を証言者に強いたという。

S18-3苦労、我慢、言ったらきりがない(13分46秒)

昭和17年、証言者は現役兵として歩兵第百三十聯隊歩兵砲隊に入営した。中国へ出征の後、昭和19年5月5日、河南省で手榴弾を改造した地雷の爆発により、乗っていた馬諸共に左足に傷を負った。破片が左足の膝の骨を砕いたものだった。その後、手術と辛いリハビリ生活を経て、証言者は復員に至る。再び故郷で農業に携わることになったものの、足の関節は未だ完治しておらず、人に話すことも憚られ、傷のことは黙ったままでいた。忍耐と頑張りで、永年痛みを堪えていた証言者が本当のことを語ったのは、傷痍軍人として認められた昭和30年頃のことであったという。

S18-4感謝、そして人との和(19分10秒)

会社勤めをしていた証言者は、昭和17年12月に現役兵として歩兵第138聯隊に入営した。この聯隊がインパール作戦に加わったことで、証言者も重機関銃中隊一員として南方へと出征した。そして昭和19年4月、激しい戦闘が続くなか、インド・アッサム州で証言者は身近で破裂した砲弾の破片により受傷する。それは11箇所にも及んだという。その後、手当もままならぬまま、戦いながら後退を続け、その間、戦友たちの悲惨な状況を目の当たりにしたという。戦後は元の会社に復職するが、後遺症により、思うようには働けなかった。そして現在の証言者は、人との和合を心がけながら、亡き戦友たちの冥福を祈る日々を送る。

S18-5いつも傷痍の夫を想いつづけて(13分04秒)

戦傷病者の妻の語り。証言者の夫は、結婚前の昭和12年11月7日、中国江蘇省で砲弾の破片を受けて左足を膝下から切断する。復員後、義足をつけて農協に勤める夫のもとに嫁いだのは昭和21年11月のことで、証言者が22歳の時であった。後遺症から足腰の冷えに悩まされる夫の体を常に気遣い、そして夫に代わり農作業にも精を出す毎日だった。また、県の傷痍軍人会の役員として会合に参席する夫につき添って出かけることも多々あり、その姿は周囲の人々の目にも微笑ましいものと映ったという。傷痍の夫とその妻の絆は、かくも固いものであった。

S18-6人生を変えた職業訓練(16分33秒)

最新の電波探信儀(レーダー)の電測員として、駆逐艦濱波に乗艦の昭和19年11月11日、証言者は敵艦載機の攻撃により受傷する。沈みゆく駆逐艦から同年兵により辛うじて救われた証言者はマニラ経由で内地還送となり、治療の日々を送ることとなった。その間、患部から破片が摘出されたものの、左手は思うようには動かなくなっていた。退院後、海軍病院で受けた職業訓練としてのミシンの組立技術を駆使して、妻と協力して故郷に服飾の専門学校を設立した。ミシンの普及と服飾面での要請という時代背景が、証言者をして、新しい道を切り拓かせた。また、その一方で証言者は県の傷痍軍人会の設立にも貢献したという。

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