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S19-1抑留中に右手を失って(19分09秒)

昭和19年に陸軍入隊後、朝鮮北部の羅南司令部の守備隊に配属されソ連国境附近の警備にあたる。終戦を現地で迎え、ソ連軍に抑留される。シベリヤのウォロシーロフ収容所で夏はレンガ工場、冬は森林伐採の作業についた。23年8月、レンガ造りの機械に右手を巻き込まれる事故にあい、右手首を切断。怪我のため同月、日本に帰国。その後、入院先で義手を付け帰郷。療友のつてを頼って仕事を転々としていたが、左手で字を書く練習に励み、役所に就職。その後は自営業などを営み、現在は傷痍軍人会のために出勤する毎日。作業用の義手は身体の一部となっている。

S19-2ミッドウェー作戦で負傷して(19分33秒)

昭和16年6月に現役兵として海軍に入団。10月、航空母艦加賀の整備兵となり、12月には真珠湾攻撃に参加。17年6月にはミッドウェー海戦に参加。艦上攻撃機の発着準備をしていた最中、甲板で準備していた爆弾や魚雷が敵機の爆弾があたり誘爆し炎上。甲板上の戦闘機、爆撃機が溶ける大惨事となった。整備兵として上下つなぎの作業服(煙管服)を身に着けていたため、ガソリンが染み込んでいた服に火が燃え移り、両腕下半身に重度の火傷をおう。ミッドウェー作戦という負け戦で負傷したため、帰国してしばらくは入院先から家族に連絡を取ることも許されなかった。

S19-3妻に支えられて六十余年(18分32秒)

昭和17年に陸軍に入隊。中国南部を転戦し、19年に潮陽での警備中、戦闘中に敵に包囲され、白兵戦となり帯剣で切りあう激しい戦闘で右手を負傷。また、手りゅう弾の爆発を受け全身を負傷。手りゅう弾の破片が多数体内に残った。その後、破片の摘出手術を受けるなどの手当てを受け、退院後、原隊に復帰。その後、終戦を迎える。21年3月に帰郷。生家の農業を継ぐが、負傷した右手に力が入らず、力仕事である農作業の多くは、戦後結婚した妻が夫に代わって行った。

S19-4二人三脚の人生(17分45秒)

昭和19年、15歳の時に親に内緒で海軍に志願し、初年兵として海防艦に乗り組み、日本近海の警備にあたる。20年7月末、紀伊水道沖で敵機の攻撃にあい、機銃で敵機を狙おうと思った瞬間に左肩に銃創を受け、続けて左前頭部に爆弾を受け負傷。そのまま気を失い、気付いた時には海軍病院のベッドの上だった。昭和20年9月に帰郷し、生家の農業を手伝うが、帰郷後まもなく、てんかんの発作が始まった。以後、半世紀もの間、この後遺症に苦しめられることになった。後に、この発作は戦争中の頭のけがが原因であることがわかったが、多い時には月に4、5回はてんかんのけいれんがおこり、そのたびに意識不明になるため、自動車の免許も取得できず、仕事や生活の多くを妻が支えた。

S19-5砲弾の破片を胸に抱えて(18分12秒)

昭和17年に陸軍に入隊。中国南部の龍陵附近で部隊や野戦病院の守備にあたっていたが、20年1月、敵の砲撃至近距離で炸裂し、左腕から左肺にかけて負傷。野戦病院で治療を受け、終戦を迎える。現地の病院で療養するなどして、21年7月に帰郷。戦後は、手術で摘出しきれずに右肺に残った砲弾の破片が原因で、喀血を繰り返す年月が続いた。しかし年月が経つにつれ喀血の症状がひどくなったため、再手術を受けることを決意し、昭和63年に破片の摘出手術を受けた。

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