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S21-1支え合い ともに歩む(15分53秒)

昭和18年8月、15歳で海軍を志願、大竹海兵団に入団する。19年9月に駆逐艦櫻に乗り組む。20年7月11日、早朝の出港直後、触雷により大阪湾で沈没。その時、弾薬庫の誘爆により右足に弾片を受け負傷。二時間半ほどの漂流の末、民間の輸送船に救助される。この間、波間に消えた者も多かったという。21年11月に帰郷。負傷した右足は1センチほど短くなった。24年2月、21歳で洋服店に入る。ここで習得した技能を元に独立。毎日おそられる鈍痛に悩まされながらも、それを乗り越え今日に至る。

S21-2受傷が変えた人生―苦悩、そして挑戦(18分34秒)

名古屋の軍需工場に勤務。昭和19年12月、徴兵の1年繰り上げで陸軍に入営。20年7月18日、中国通州の飛行場で敵機による機銃掃射を右腕に受ける。北京の陸軍病院に搬送されるも、局部麻酔で右腕を切断される。12月に内地還送となり、療養の後、帰郷する。亡き兄に代わり家を継ぎ、農業に努めるもきき腕が使えないため、田植え、稲刈りなど、苦労は絶えなかったが、何事にも前向きに生きた半生を語る。

S21-3家族の絆で支え合う(15分39秒)

夫は昭和14年9月30日と17年6月12日の二度にわたり中国で受傷。二度目の河南省の山岳地帯で負った右大腿部の傷は深く、北京の陸軍病院での治療の後、内地還送となった。この間、治療した右足は6センチほど短くなっていた。19年9月に結婚。戦後、農協に勤める。昭和30年代から徐々に回復にむかったが、足の痛みに悩まされていた日々であった。

S21-4運命の出会いを育んで(15分44秒)

証言者の夫は昭和18年1月、ガダルカナル島で左腕を受傷。臨時名古屋第二陸軍病院に入院時、臨時救護看護婦であった証言者が看護した時に知り合う。その後、夫は転院するが文通の末、20年2月に結婚する。夫は左腕が上がらないため、傷痕の痛みに悩まされたが、後年、病に倒れ、10年間介護した。

S21-5受傷の苦悩を乗り越えて(21分31秒)

昭和16年10月、東京陸軍航空学校に合格。20年5月、新型偵察機に搭乗中、エンジンの不調から福岡の飛行場近くに不時着。その時、火災により顔全体に火傷を負い、それが心の傷となり、家から外に出ない日が半年ほど続く。そんな中、父親の助言により夜間市場で野菜の販売を始める。馴染み客との交流によって徐々に心を開くようになり、客の信頼を得られるようになった。今では、夫婦で野菜作りに専念している。

S21-6受傷の痛み 優しきまなざし(16分20秒)

昭和15年12月に陸軍に入営、中国へ。17年12月2日、作戦行動中に敵弾により両足を負傷。北京の陸軍病院で治療するも、ガス壊疽(えそ)となる。18年5月、内地還送となる。19年5月、前の職場に復帰、足の痛みに耐えて定年まで勤めた。その後は自分と同じ障害者に共感し、その力となるべくボランティアとして組織作りや活動に尽力する。

S21-7海軍看護兵 若き日の記憶(14分34秒)

昭和8年5月、19歳で海軍を志願、呉海兵団に看護兵(後の衛生兵)として入団。呉海軍病院等での陸上勤務を経て、特務艦室戸、戦艦伊勢、特務艦牟婁丸、特設病院船高砂丸に配属される。海軍での生活に魅力を感じ、艦船勤務に努力する。17年5月、統計室長として高砂丸で南太平洋上を航行中、結核を発症。6月、呉海軍病院へ入院。療養生活後の20年9月、自宅へ帰る。その後、役場へ勤める。海軍生活で味わった貴重な体験を語る。

S21-8「再起奉公」痛みと葛藤を超えて(17分23秒)

昭和15年12月に陸軍に入営後、中国へ。17年1月24日、淮陽県での戦闘で右足を負傷する。盲管銃創による患部の悪化により、後に摘出手術を受ける。内地還送後も患部の化膿は治まらず、23回に及ぶ手術を受けた戦後は役場に勤める。新薬のペニシリンによってようやく快方へ向かう。療養中の心境は、日記や短歌に綴られている。それは戦地に残した戦友達への熱い想いがある。「再起奉公」は、本人にとって生きるうえでの目標であった。

S21-9軍隊経験 その光と影(21分10秒)

電力会社に勤務。昭和15年12月、陸軍に入営。騎兵として中国へ。16年5月9日、河南省済源で敵手榴弾により顔面に負傷。搬送先の瀋陽の陸軍病院で国防婦人会の慰問を受けた時、自分の顔面の負傷を見て驚き立ち去る姿に衝撃を受けた。同月に内地還送となり、各地の陸軍病院で加療後、17年6月に退院・帰郷し、電力会社へ復帰。軍隊生活は人生に新たな一面を切り開いたが、また一方で大きな傷痕も残した。

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