S24-1国のために生きて~元海軍軍医中尉の記憶~(22分46秒)
昭和19年に東北帝国大学医学部を卒業。その年に新設された海軍軍医学校戸塚分校に進む。昭和20年1月に同校を卒業し、軍医中尉に任官。愛知県にあった第2河和航空隊に配属された。同隊は搭乗員の飛行訓練を行っていたため、基地にて隊員の健康管理や飛行訓練中の事故による負傷者の救護にあたる。その後、昭和20年6月に徳島にあった第584設営隊に配属され、本土決戦を前に飛行場を建設する部隊の医務隊長として、終戦まで隊員の健康管理や診察にあたる。
S24-2本土決戦前の軍医教育(20分25秒)
昭和17年に東京医学専門学校(現東京医科大学)入学後、陸軍衛生部の依託生徒の試験に合格し、在学中から軍隊教育を受ける。学校卒業直前の昭和20年3月10日、東京の大空襲に遭遇し、当時、同校の附属病院の防空当直をしていたため、病院に次々と運ばれてくる被災者の救護にあたった。
同年4月に陸軍軍医学校に入り、教育期間を4ヶ月に短縮され、見習士官として具に必要な衛生教育や戦術等を学んでいたが、演習中に終戦を迎えた。
S24-3元海軍薬剤少尉の記憶(18分39秒)
昭和18年9月に東京薬学専門学校(現東京薬科大学)を卒業。半年間、大学で研究生活を送った後に海軍を志願し、昭和19年7月に新設された海軍軍医学校戸塚分校に入学。昭和20年1月に卒業し、薬剤少尉となり横須賀海軍病院に配属される。横須賀鎮守府管下の各病院、艦船や潜水艦、部隊、海軍の各種学校へ治療品の供給を扱う療品科の担当となる。昭和20年7月の横須賀空襲の際は、同病院も被害を受け、当時、病院の警備隊長として患者を防空壕に退避させ、被災した重症患者の搬送などの任務にあたった。
S24-4看護ひとすじ:フィリピンで終戦を迎えた救護看護婦(21分25秒)
高等女学校卒業後、昭和11年に日赤の看護婦養成所に入る。3年間の教育を受け、卒業後、昭和14年春に臨時第21救護班の一員として中国石家荘にある陸軍の兵站病院に派遣され、傷病兵の看護にあたる。昭和16年に一時帰国し、国内の病院に勤務していたが、昭和17年2月に第315救護班の配属となり、フィリピンマニラの兵站病院に派遣された。南方の戦地から運ばれてくる傷病兵の受け入れ業務に従事していたが、戦況の悪化に伴い、昭和19年3月にマニラからフィリピン北部の病院に転属となり、以後北へ移動することになった。途中で負傷兵と別れて、救護班の仲間とともに山中に逃げていた途中で終戦を知る。
S24-5天地の恵みを知る(20分01秒)
~ニューギニアで終戦を迎えた軍医~
昭和16年3月に慶応義塾大学医学部を卒業。同年10月に陸軍に入隊。京城(現ソウル市)の歩兵部隊で2ヶ月間訓練を受け、同年12月末に軍医中尉に任官。翌17年1月に北支那防疫給水部に配属され、中国山西省に駐屯し、駐屯地の水源の水質検査や部隊の隊員の健康管理など、防疫給水活動に従事。昭和18年11月に上海から西部ニューギニアに移動。到着後、自らも発熱腸出血を患い、2ヶ月間、サルミで療養生活を送る。昭和19年4月から米軍の攻撃開始、翌5月に米軍が上陸すると野戦病院はジャングル奥地に退避。その後終戦まで現地で自活する生活を送り、昭和21年6月に復員。
S24-6両眼失明が切りひらいた戦後の人生(22分09秒)
海軍に志願し、昭和19年6月、16歳の時に呉の大竹海兵団に入団。初年兵教育の後、戦艦伊勢に配属され、その後すぐに昭和19年10月のレイテ沖海戦出撃に加わる。昭和20年7月28日、呉で待機していた伊勢艦上で連日の敵機の攻撃にあい、両眼と右肩、左胸に爆弾の弾片を受け負傷。その後、左眼の摘出手術を受け、入院先で終戦を迎える。残された右眼も見えなくなったが、同じ病院の患者仲間と中途失明者のための職業教育機関である国立光明寮の設立運動や平和運動や傷痍軍人に対する国の補償を求める運動などに参加した。退院後は鍼灸マッサージの国家資格を取得。帰郷後は視覚障害者や失明傷痍軍人の福祉に力を尽くした。
S24-7陸軍看護婦に志願して(20分13秒)
戦死した兄に代わって看護婦となることを志し、昭和16年に看護婦になるために大阪にあった看護婦教育所に入学。卒業後、昭和18年に陸軍看護婦を志願し、大阪陸軍病院に配属される。昭和20年2月に大阪陸軍病院金岡分院に転属となり、同年3月の大阪空襲の時は非番であったが、罹災した老夫婦の救助にあたった。その後も大阪で続いた空襲の罹災者救護にあたる。金岡分院では、戦地から大阪港に搬送された傷病兵の受け入れ、転院の業務の補助に加わった。終戦後は左手を負傷した傷痍軍人の夫と結婚し、慣れない農作業を手伝うなど夫の支えとなった。