S25-1人間の尊厳の回復につくした生涯(33分08秒)
東京市養育院に勤務中に召集を受け、昭和17年4月に陸軍入隊。中国山西省の師団司令部付きとなったが、昭和18年7月30日に乗っていたトラックが敵の地雷に触れ身体毎はね飛ばされ右肘を負傷。腕は薄皮一枚でつながったが、搬送先の病院で治療のため上膊の切断手術を受ける。内地還送後、病院で義手を受け取り昭和19年11月に退院。戦後は傷痍軍人会の活動に従事し、脊髄損傷やハンセン病の戦傷病者などを含む多くの戦傷病者の福祉のために力を尽くした。
S25-2西部ニューギニア・軍医の闘い(23分54秒)
昭和14年4月に日本医科大学に入学、在学中に陸軍衛生部の依託学生の試験に合格し、軍医教育を受ける。昭和17年9月に大学卒業後、10月に陸軍に入隊し、軍医学校で教育を受ける。同年12月に軍医中尉となり、第36師団歩兵第224連隊に配属され、中国へ。その後、昭和19年1月に南方に転属となり、同年2月にフィリピンへ。自らがデング熱に罹患したため、しばらく療養した後に、同年3月単身、軍用機でマニラを発ち、西部ニューギニア滞在の部隊と合流。同年5月から7月にかけての連合軍による攻撃を受け、傷病兵の治療に従事した後、昭和21年6月まで現地にて自活する生活を続け、復員した。
S25-3南方の戦火をくぐった救護看護婦(14分29秒)
昭和13年から3年間、宮城の日赤看護婦養成所で教育を受け、卒業後、昭和16年10月に第205救護班の補充員として東京の陸軍病院に配属となる。同年12月からの太平洋戦争開始後、第320救護班に転属となり、昭和17年1月から台湾の台北陸軍病院、昭和18年6月からフィリピンマニラにあった南方第12陸軍病院、その2ヶ月後にラバウルのココポ第103兵站病院、翌昭和19年1月にはパラオのコロール島の第123兵站病院に勤務した。南方では、ジャングルの中の伝染病棟で腸チフスなどを患った戦病患者などの看護に従事した。