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S30-1耐えて得た人生(19分6秒)

昭和14年、郵便局に勤務時、陸軍補充兵で召集。中支鉄山で勤務。湖北省咸寧県付近の戦闘で左脚関節部を貫通銃創。南京陸軍病院へ転送され手術。内地還送され善通寺陸軍病院へ転送され再手術。昭和16年、除隊して自宅療養。粉砕骨折のため細かい骨が出てくるたび入退院を繰り返す。松山陸軍病院では7回目の手術となる。足に長期間ギブスをしていたため、足の関節が固着する。除隊後、郵便局へ復職中、太平洋戦争開戦。職場へは自転車で通勤。昭和23年、局長として勤務。そのまま郵便業務一筋で勤め上げた。

S30-2一日のことで人生が変わる(19分5秒)

昭和18年、17歳で白紙動員(徴用工)として日輪兵舎で軍事教育を受けた。その後、宇部の理研金属株式会社に準軍属として勤務。ジュラルミンの精製作業中、溶鉱炉のある3階から2階へ転落し膝を強打。病院で切断手術を薦められるが拒否、右脚は曲がらないままとなった。昭和20年、徴兵検査で丙種不合格となり挫折を味わう。昭和29年、内子町傷痍軍人会に入会するも初年兵扱いされる。身体障害者団体などにも参加。同じ障害をもつ団体同士として面倒をみていくうちに、それが生きがいに変わっていった経緯を語る。

S30-3負傷したことのハンディをバネに(20分38秒)

昭和13年佐世保海兵団へ入団。戦艦「川内」勤務。空への憧れから海軍航空隊へ入隊。昭和16年、零戦の試験飛行中に墜落して顔面(右眼視力廃絶・右下顎骨骨折)と左腕を負傷し漢口海軍病院へ入院、2か月間意識不明。内地還送され佐世保海軍病院へ入院中、太平洋戦争開戦。その後、退院し除隊。松山結核療養所の傷痍軍人の社会復帰の場として七生寮の設立に依頼され参加するも事業は失敗し、終戦にて実家へ戻る。零戦を壊し戦争へ行けなかったという自責の念から、地域に役立ちたいと農協の設立や傷痍軍人会の発足などを手掛け、町会議員として町の発展に寄与した。

S30-4戦傷の身でも川之江町へ…(19分51秒)

大阪の堺軍需工場に勤務。昭和16年、歩兵第六連隊に入営。昭和17年、ルソン島でマッカーサーの部隊と戦闘中、顔面擦過傷と右上膊、腰部の砲弾破片創となる。台湾の陸軍病院に入院。内地還送後、転院し大阪陸軍病院白浜臨時転地療養所で除隊。堺に復職後、川之江町が軍需産業の町へと転換するため、川之江町へ技術指導として派遣される。除隊でありながら勤務時に再召集され、召集理由が不明のまま出征直前に終戦。川之江町へ派遣時、現在の妻と知り合う。腰部に受けた砲弾破片は、脊髄損傷にかかわるという爆弾を抱えたまま、今日に至る。

S30-5右脚一本、海で生きた軍属(19分47秒)

昭和18年、日本郵船に勤務後、門司海軍武官府に軍属として勤務。関門海峡を通過する船を監視し機雷掃海に従事。昭和20年7月、掃海艇で門司港を出港時、機雷に接触して轟沈。両足を負傷し陸軍に救助され小倉陸軍病院へ仮収容。岩国海軍病院に転院して破損がひどかった左脚膝下の三分の一を切断。病院の中庭で玉音放送を聞く。左脚膝下断端部の整形手術、歩行訓練を行なって退院。自分の全体重が膝下にかかり細く変形している。戦後、機関士として足の不自由を感じさせないよう健常者と同等に働くことで、船主からの信頼を得た喜びを語る。

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