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S31-1みんなのため、人のため…(最後の日傷会長)(30分6秒)

昭和15年、陸軍に入営。中国へ派遣。戦闘により昭和17年に左脚大腿部を盲管銃創、昭和19年に右上膊右前膊軟部貫通銃創と2回受傷。内地還送を拒否し2回目に切断した正中神経の縫合手術を実施。南京の支那派遣軍総司令部参謀部に転属され終戦。支那派遣軍復員本部として引揚軍人の復員業務に従事。郷里よりの帰宅依頼にて復員事務官を退官し帰郷。昭和27年、福島県傷の設立に尽力。県傷理事から日傷の評議員、理事を経て平成17年、日傷会長となり平成25年の解散まで勤めた。今日まで「戦争がなかったから傷痍軍人が出なかった」として名誉ある解散であったと語る。

S31-2無いものは無い、それでもやるほかない…(19分25秒)

昭和18年東北電力に勤務時、徴兵検査で甲種合格。陸軍へ入営して朝鮮の羅南、フィリピン経由で台湾の高雄へ。昭和20年、高雄から屏東飛行場へ行軍中、米軍の機銃掃射で右肘を貫通銃創。高雄陸軍病院にて麻酔なしで切断手術を受ける。骨を丸く削る音が今も思い出される。内地還送され、臨時東京第三陸軍病院を経て新潟の湯沢で療養中に終戦。兄が戦死し農業を継ぐ。右腕欠損のため復職できず、近所で陰口をたたかれた悔しさを聞いた長男の嫁が代弁する。義手をつけず、足を使って左手の爪を切るなど、人に頼らない生き方を貫く。

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