S34-1人生を切り開いた知恵 ~シベリアで片腕を失う~(19分38秒)
造船所で働いた後、陸軍に入営。満州で終戦を迎え、シベリア抑留される。パクタラールの収容所では貯蔵庫から食糧を失敬し、飢えをしのぐ。カラカンダの炭坑ではベルトコンベアに巻き込まれ、右腕を失う。帰国後は戦後復興で活発だった炭坑の坑木を売る。今も肩の付け根は痛む。90歳を迎え、目標は「ギネスに載るくらいまで生きていたい」。
S34-2受傷した手で挑んだ開拓 そして、人のために…(21分36秒)
満洲で徴兵検査を受けて甲種合格。昭和20年、ソ連軍との交戦で手・腹・頭・足に受傷。指先を失った。終戦後、家族が暮らす撫順で療養。故郷の大分に戻り、痛む手に鍬を握って妻と山の開拓に励むものの、金銭面で苦労する。軍人恩給の申請は、証明書類を消失していたため断念。国立病院に入院時、医師の勧めで手続きを知り受給された。人に救われたことを糧に「命の電話の相談員」等、人のために奔走する。
S34-3最後まで傷痍軍人として(22分22秒)
呉服店に奉公していた昭和16年に陸軍に志願。中国広西省の桂林付近で右腕を狙撃される。腕の切断手術を受けた直後に終戦を知った。管理の崩壊した病院を転々とし、武昌の陸軍病院に収容された時は丸裸状態。昭和21年に引揚げ、結婚。郵便局に勤めるも食糧の確保に苦労した。傷痍軍人の自立運動の先頭に立つ。今、生活に不自由はないと言い切る。
S34-4生き残った苦しみ ~CT登場で認められた脳の受傷~(24分14秒)
予科練で最優秀の成績を修め、爆撃機銀河のパイロットとなる。宮崎海軍航空基地で特攻隊の出撃を何度も見送る。沖縄戦に投入され、脳が見えるほどの傷を受けつつも鹿児島沖まで飛び不時着。終戦後は大学進学を断念して国鉄に就職。頭痛と体のしびれ、てんかんに悩む。昭和50年代にCTが導入され、念願の頭部損傷が認められた。今は特攻で亡くなった仲間を供養する日々。
S34-5全てを受け入れて ~肺結核の夫を支える~(17分13秒)
妻のたえ子さんが夫の文利さんについて語る。小学校教師だった夫が召集され、輜重兵としてブーゲンビル島で勤務中、結核を発症。戦後は小学校に復職するも症状が悪化し、昭和25年教員保養所に入所。肺の一部を切除し退院後も無理が効かなくなる。小学校校長、宇佐市傷痍軍人会会長、地元の区長などを務める。妻は夫の体を気遣いつつ農作業に奮闘。今は夫が残した梅畑の手入れに余念がない。