S37-1酷寒・飢え・目の痛み そして再出発(21分57秒)
昭和16年茨城県内原訓練所へ入所。満州へ。満州で徴兵検査。入隊。昭和20年8月9日、ソ連侵攻。18日武装解除されソ連へ連行。収容所でマキ割り作業中、木片が眼に刺さる。3日3晩そのままの状態で痛みを堪えて過ごす。軍医に診察されるも、目薬をつけるだけ。昭和23年復員。右眼の負傷を同船していた軍医・戦友が証明してくれ、恩給申請することができた。昭和44年春 急に眼がつぶれて出血。国立嬉野病院で眼球摘出手術。右眼は全く見えない状態ながらも100歳まで生きると意気込む。
S37-2終戦の日の受傷から…103歳まで生きる(20分21秒)
昭和17年、徴用工員として川南造船工場(電気工)へ派遣。召集され久留米の陸軍砲兵部隊に入隊。終戦日、馬に分解した山砲を駄載中、突然暴れた馬に右頭部を蹴られ意識不明(右眼失明)となる。野戦病院で1週間意識不明のまま治療。終戦を知る。頭に包帯を巻いたまま退院除隊。右眼外傷性視神経萎縮症と診断。父他界により農業に従事。昭和63年土建業で山林伐採中、材木で頭部打撲。硬膜下血腫を発症し脳外科で切開手術。回復後は区長や宮総代として地域に尽くしていった。
S37-3ただ一回の「ほめことば」(22分54秒)
夫は、海軍の要請で東カロリン群島ポナペ島へ電気工事士として出向。昭和19年工事中、高圧線に触れ受傷。電撃症後貽症。終戦を現地の病院で迎える。復員後、東京の海軍病院で義手装着。昭和21年、手足を負傷した傷痍軍人の手足になろうと思い結婚。昭和28年、役場から依頼され水道工事を担当。役場の職員となり定年後、嘱託で水道業務を行う。左腕(上腕)がケロイド状になっていたので、人に見せるのを嫌った。他界する直前、「笑子よくやってくれた」と言われ、今までの苦労が帳消しとなった。
S37-4今日あることに感謝 明日があればさらによし(22分47秒)
昭和18年入営。第232連隊。満洲の公主嶺に駐屯中、終戦を知る。ソ連のカラカンダへ抑留。昭和22年10月8日、炭鉱で採掘作業中、負傷。ドイツ軍医に手術を受ける。昭和23年舞鶴へ。術後治療も施され、帰国後の再手術が不要となった。東京の国立病院で義足訓練後、帰宅。相模原の更生指導所で洋裁の技術を習得。松江で仕事を開始。昭和28年洋裁の仕事で知り合い結婚。今も失った脚の幻痛がある。今ここにいられることがうれしい。「運がよかったと思え」と戒めている。