S38-1気配りが生んだ「転ばぬ先の杖」(18分43秒)
夫は昭和16年航空第12教育隊に入隊。昭和19年冬季作戦のため千島列島の占守島片岡飛行場へ。昭和20年6月米軍機の空襲で受傷。千島の陸軍病院に入院。戦後、東洋紡績に勤務。昭和40年結婚。県傷に入る。ホテル用の風呂(プラスチック樹脂)製作。55歳で腰痛のため退職。義手は作業用義手を付け、自宅では外した。平成18年没。何でも自分でやり、日常品は後で困らないよう大量に購入し全く手間がかからない夫について話す。
S38-2体験記をまとめて知った父の想い(21分43秒)
父は昭和12年徴兵検査。歩兵第38連隊に入営。青島上陸。昭和13年負傷。左手首から銃弾が入り肘から抜ける。京都陸軍病院を退院して帰宅。開戦翌年に結婚。昭和20年長男誕生。恩給復活後、国に認められた思いがあった。テレビを見て「命をかける」という軽はずみな発言に苦言を呈した。父の左腕が動かない分、母が助けた。戦争番組を見ていると、父から人はそんなに簡単に殺せないと言われた。父の体験記を読んで、戦争のしんどさが理解できた。
S38-3大きな夫を小さな体で支えて(19分00秒)
昭和14年臨時招集にて歩兵第連隊留守隊に応召。潮洲西方地区の戦闘で頭部受傷。陸軍軍医学校から転院を繰り返し国府台病院で退院、永久服役免除となる。昭和28年知恵子さんは傷痍軍人(左半身不随、外傷性てんかん)であることを承知で結婚。昭和60年、夫が死亡後、一人住いとなる。夫の妹の孫娘が結婚と同時に家を継ぐ。孫娘が知恵子さんについて話す。おじいさんの代わりに家を守ってくれたおばあさんに感謝している。
S38-4捕虜と隔離が打ち砕いた人生(29分43秒)
昭和16年第7航空教育隊に入営。牡丹江省からニューギニア上陸。昭和19年捕虜となる。シドニーからカウラ収容所へ。ハンセン病発症。昭和21年復員。船のドアに「特殊伝染病につき立ち入り禁止」と張り紙。自宅へ「戦死広報」が届いたので、取り消し手続きを取った。邑久光明園へ入園。この時に本名を捨てた。バスに乗車拒否され、岡山駅まで歩いた時もあった。外出のため免許取得。「失明する前に一目故郷をみたい」という入所者の女性を乗せて能登半島まで行ったこともあった。