S39-1身に沁みた平和(14分16秒)
昭和20年、海軍対潜学校を卒業し、佐世保で敷設艇「燕」乗組員となる。同年宮古島沖にて米軍戦闘機の爆撃を受け、左足の腱を切断。台湾・キールンの海軍病院で足の腱を繋ぐ手術をうけるが、機能は戻らず杖での歩行を余儀なくされる。台湾に上陸時、「こんな平和なとこが世の中にあるのか」と感じる。戦後は足が不自由なため農協に勤めた。生きて帰れたことのありがたみを話す。
S39-2全てはシベリアから始まった(16分10秒)
昭和13年、第一次満蒙青少年義勇軍に入隊。昭和19年満州で徴兵。擲弾兵として訓練を受けた。昭和20年8月17日、依蘭でソ連兵と衝突。爆弾破片で左手親指の先を潰す。そのままシベリア抑留中は建築業務に従事。収容所にて製材中、左親指を切断。昭和24年舞鶴へ。シベリア帰りというだけで帰郷後2年ほど警察に尾行される。大工仕事に就くも生活が厳しかった。昭和34年2級建築士の免許を取得。不自由な親指を駆使して建てた家は100軒を超す。
S39-3自分の傷より他人の世話~娘が繋ぐ人生~(12分15秒)
昭和17年陸軍入営。中国湖北省咸寧の戦闘で右腕貫通・盲管銃創となり内地還送。大阪陸軍病院で治療を受けたが右腕機能障害が残る。昭和21年結婚。秀子さんは大規模農家を支えた。市次さんは自分の障害を表に出さず人の世話をし、徳島県傷痍軍人会会長を務めた。市次さんの思いは娘が継ぎ、父の死後、事務局長として会の解散まで携わった。
S39-4見えない目、理解されない苦しみの中で(13分27秒)
昭和17年、徴兵で中国に出征、歩兵第43連隊第2機関銃中隊に編入。翌年左眼硝子体溷濁症と診断され失明する。虎林陸軍病院に入院後、内地還送。昭和19年現役免除となり結婚。昭和20年5月臨時召集され、塹壕掘りに従事。戦後、徴兵前に修業した鼻緒職人となるが、色彩が分かりにくく苦労する。昭和36年に恩給請求。5項症に認定され、生活に一息ついた。障害が外見では分かりにくいため「怠け者」などと言われることもあったが、当時は食べるため必死だった。
S39-5国に渡した体半分(16分40秒)
昭和19年、海軍に志願。海軍対潜学校で音感訓練を受け、第186海防艦に水測兵として乗り組み、グラマン20機の攻撃を受け船が沈む時に打撲。昭和20年、横須賀での勤務中に40度の発熱。体のあちこちの骨が腐り、「生きて1年」と宣告された。左脚股関節が腐ってなくなり歩行が困難となる。恩給の認可がなかなか下りず、厳しい生活が続いた。出撃前、健康な体で見た最後の風景が忘れられない。「国に体の半分を渡した」という思いがある。