S51-1筆舌に尽くせぬ苦しみの日々(10分08秒)
昭和12年入隊、中国南京にて戦争の悲惨さを目撃。14年4月、八路軍との交戦で負傷。内地に送還され臨時東京第一陸軍病院入院。一時帰郷したとき、片足で歩行する姿を人目に晒し辱められた思いをした。また、家では幼子が父親の歩行姿を真似るのに情けない思いと怒りを覚えた。終戦の混乱の中、障害の身では食糧不足を補う買出しにも行けず、衣類を米に換えて凌いだ。受傷部位が結核菌に冒されカリエスを発症して闘病生活に戻る。竹串を突き通されるような痛みは筆舌に絶する。戦争は終わったというが傷痍者の痛みは今も続く。
S51-2海軍少年電測兵15歳の受傷(10分01秒)
昭和19年1月、14歳で志願兵として海軍に採用。電測兵※として訓練を受けた後、和洋丸に乗船。20年3月、海南島から香港へ航行中、米軍機の機銃掃射により受傷。入院二日目、軍医から命を助けるためには右腕を切断しなければならないと告げられ同意する。終戦後、右膝の手術を受け歩行訓練に励んでいた。そんな時期、兄の結婚話が突然破談になり、原因は障害をもつ弟がいるためではないかと考え、20歳時に実家を出て自立を目指す。妻と巡り会い商売を軌道に乗せた。右腕を切断して60年にもなるが、今でも指先が動く様な錯覚にとらわれる。
※ レーダーや電波探知機の操作を行う兵。
S51-3死んで花実が咲くものか(24分10秒)
海軍に入団して硫黄島に上陸後、通信兵として蒸し風呂状態の地下壕に入る。炸裂した至近弾で受傷し、米軍の捕虜となった。米本土に渡った捕虜は60人程度。戦後日本に帰る。右手の欠損部分の神経を抜いていないため先端は過敏な状態。仕事は二次試験で落とされた。手が原因だった。東武へ入社し、定年まで勤めた。米軍に救われたことを感謝。
S51-4通信兵の見た硫黄島(19分43秒)
生還した通信兵が見た玉砕の島「硫黄島」の紹介。上陸前の艦砲射撃の激しさ。米軍上陸前にフラッグマンが海岸にレッド・イエロー・ブラックと立てた旗を目印に部隊が上陸。各部隊単位で掘った壕は18キロ。縄張り意識が高く、他の兵が壕に入ることはさせなかった。異常な環境下、硫黄島で受傷し意識を失い米軍の捕虜になった証言。