S52-1兄嫁と結婚してつかんだ幸せ(19分29秒)
昭和20年米軍との銃撃戦で右大腿部盲管銃創となる。米兵に救助され野戦病院に収容。傷口から膿と血が出るため、毎日ガーゼを交換。昭和26年結婚。妻は戦死した兄の嫁。妻が営んだせんべい屋を手伝った。昭和40年恩給申請したが、外地に行った記録がないため恩給対象とならなかった。傷口の治療時、親指の爪大の破片が2個出てきた。米国大使館で調べてもらった結果、野戦病院にいた事実が証明され傷痍軍人に認定。
S52-2生と死に向かい合った2時間(09分41秒)
昭和18年3月、予科練習生として飛行訓練中墜落事故により右足を負傷し、1年間の入院生活を送る。ブーゲンビル沖海戦に仲間が飛び立つのを焦燥感をもって見送る。19年11月、傷も癒え原隊復帰、サイパン特別銃撃決死隊の偵察機に搭乗。帰還の術無い同隊12機を引率し見守った辛さは言い難い。昭和40年頃、自分が写っている「第一御盾特別攻撃隊」と記された写真に出会い、隊員の消息調査を決意、漸く「甲飛八期のあゆみ」を上梓した。
S52-3失明の恐怖とシベリア抑留(08分46秒)
昭和19年10月、千島列島の小島シムシル島(新知島)で敵の投下爆弾により受傷。軍医から左眼回復の見込みなしと告げられる。占守島で終戦を迎えシベリアへ抑留される。厳寒の中、強制労働に従事、右眼も視力乏しくなり医務室を受診。左眼摘出するも右眼の視力戻らず失明。21年末、帰国。東京の国立光明寮に入所し鍼灸を学び、26年、職を得る。同年結婚。失明により変わってしまった人生、年老いた両親の悲しみを思いやる。
S52-4負けてたまるか!(09分58秒)
昭和18年5月、中国湖南省にて作戦遂行中に受傷。救命のため、軍医から右足切断を告げられやむなく受け入れる。内地に送還され臨時東京第一陸軍病院にて鉄脚(当時、義足は鉄製であったためこう呼ばれた。)装着による片足行軍などの厳しいリハビリを受け、左足が鍛えられた。25年結婚。負けず嫌いな性格から、健常者と変わりない生活を心掛けているが、これも、妻の支えがあってこそ可能。妻は、右足切断の夫を気遣い常に右側に立ち支えられる態勢をとっているという。
S52-5手の代わりを腕が・・・(10分44秒)
証言者の二人は戦傷で両腕を切断。手首を割って手指の代わりとする手術をともに受けたお二人の対談。終戦後、故佐藤孝三軍医と出会い、ドイツ式手術(クルケンベルク式)を勧められる。義手装着は実用に適さないと実感していた二人は手術に同意。義手に比較して機能面では優れるものの見た目の悪さで労苦した経験などを語る。
S52-6偏見・差別・迫害(10分48秒)
昭和16年1月、中国にてハンセン病発病。病名が確定し内地送還までの差別に満ちた扱いの中、天津病院での中国人の親切が忘れられない。広島陸軍病院へ収容後、宇都宮陸軍病院へ転送される列車に「伝染病患者」と表示され、ただ一人だけで乗車。多磨全生園に移され半年振りで入浴できた時は生き返った心地がした。18年に所内結婚したが断種手術を受けることが条件であった。隔離政策は、平成8年「らい予防法」が廃止されるまで続いた。
S52-7利き腕の障害を乗り越えて(09分52秒)
昭和15年仙台工兵隊に入隊後、ジャワ島、ガダルカナル島、ビルマ等南方戦線に従軍。19年9月、中国雲南省での戦闘で機銃の乱射を受け受傷。衛生兵の応急措置を受け治癒しないまま2カ月間行軍。途中、衣服を熱湯消毒してくれた住民の好意が忘れられない。ベトナムのサイゴンで終戦を迎える。9カ月の捕虜生活を経て21年、復員(帰国)。元の大工仕事を続けたい一心で2級建築士の資格を取得し工務店を開業。父親が障害者であることで子供が言葉のいじめにあったことが不憫でならない。
S52-8傷痍軍人の妻として・・・(14分58秒)
傷痍軍人の妻三人が労苦を語る鼎談。幼い娘二人を残して夫は他界。相談に行った職業安定所で訓練生募集中との話しを聴き経理部門に入所。資格取得し就職に役立てた妻。夫の傷病、息子の死亡、そして孫娘の病気入院など重なる不幸を乗り切った妻。皆さんそれぞれが体験した生活の労苦を語る。
S52-9歌声に祈りをこめて~水谷 俊夫さんの証言~(22分55秒)
昭和16年3月に音楽学校を卒業してから一年余り音楽教師をした後、昭和17年1月に陸軍に入隊。満洲の部隊に配属されるが、その年の秋、右足を負傷。しばらく療養してから、日本の病院に送られる。入院中の病院で、療友とともに患者を慰安するため演芸会を開催。退院後も当時の国策団体であった大政翼賛会の指示のもと、学校時代の仲間とともに全国の病院や学校、軍隊へ慰問にまわる。慰問先の病院で体験したつらい想い出を語る。