S53-1見た目はなんでもないが・・・(9分45秒)
昭和19年4月、南方のパラオへ転進。20年5月、大発(上陸用小型船)に乗船してペリリュー島へ向かう途中、敵機2機の攻撃を受け受傷。褌で止血し1キロ泳ぎ救助された。内地へ還送され高崎陸軍病院へ入院。栄養失調で痩せ衰えていたため見舞いに来た家族は、本人に気付かず探した程哀れな姿だった。両手の機能障害は日常生活や農業に多大な支障があるが、一見、健常者と変わりないので理解してもらい難い。
S53-2飢え マラリア 受傷(09分58秒)
昭和15年に召集され18年1月に召集解除となるも即日臨時召集されニューギニアへ。同地で二度の受傷。医療設備も医薬品もなく、消し炭を傷口に塗りつけ脚絆を包帯の代わりに巻いて行軍した。終戦まで飢えとデング熱、マラリアに苦しむ。「衣食足りて礼節を知る」とは名言。どん底まで追い込まれた人間が何をしたか。帰国後、長期に亘り自宅療養を続け役場に職を得たが、戦争恐怖病、神経衰弱、マラリア再発などでまともな勤務はできなかった。また、後遺症のため常に眠気に襲われ、運転免許も取得できなかった。22年に結婚した妻は既に他界。支えてくれた妻には感謝してもしきれない。
S53-3隻眼の人生(09分58秒)
昭和17年5月、志願兵として横須賀海兵団に入団。19年9月、小笠原諸島父島にて退避命令により防空壕に退避中、直撃を受け埋没したところを救助され九死に一生を得る。医務室に運ばれ応急処置後、横須賀海軍病院に収容される。軍医学校附属病院に転院、眼球摘出手術や眉毛植毛手術など三度の手術を受ける。運転免許取得の労苦など義眼とともに暮らしたこれまでの人生を語る。