S54-1厳しい訓練も今となれば(09分51秒)
昭和15年、召集。17年、パラオからニューギニアへ転戦し同地で右腕を受傷。内地へ向かう輸送船に便乗して帰還。臨時東京第三陸軍病院に収容され厳しい生活訓練を受けた。退院し元の製材所へ復職したが、片手での仕事は苦労の連続であった。賃金だけでは生活が成り立たず、子供へクリスマスの贈物も出来なかったことはとても辛かった。そんな時、心の支えとなったのは趣味の盆栽。好みにあった盆栽の鉢を作ろうと始めた陶芸は納得できる作品を制作できるまでになった。
S54-2家族までもが戦禍に(10分15秒)
昭和5年、甲府第百四十一聯隊に入隊。上海に派遣されウースンクリークで戦闘に参加。水浸しとなった衣服が防弾効果を発揮し一命を取り留め帰還。皮肉なことに、二度目の召集で甲府在勤中、20年7月7日、空襲に遭い頭と左手を負傷。同空襲で子供3人と母が死亡した。障害の不自由さを理解しない人から心ない言葉を浴びせられ悔しい思いもした。家業は米屋であったが左手は用をなさず右手だけで米を詰めるのに難儀した。
S54-3死の瀬戸際で過ごした一年間(10分24秒)
昭和17年、甲府の歩兵49聯隊に入隊し満洲へ。翌年、転属した部隊は南方のグアム島へ。19年7月、米軍上陸の戦闘で右眼を受傷(右眼失明)。衛生兵の手当を受けただけで部隊は離散、治療は受けられなかった((注)19年8月、グアム島守備隊玉砕)。島内のジャングルに潜み1年間逃避生活を送った。米軍収容所から迎えがきて終戦を知る。復員し帰郷したが実家へは既に死亡公報が届いていた。