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S6-1衛生兵ゆえの感染 (11分01秒)

昭和18年9月、衛生兵としてスマトラの患者療養所に勤務中その時の結核患者の世話で自らも感染。終戦後復員したが結核の症状は進行し、手術で肋骨6本を切除し、ようやく命をとりとめた。だが肺活量が少ないせいで、その後の仕事や生活で労苦をした

S6-2親指が支えた人生 (10分18秒)

海軍機関兵として駆逐艦綾波に乗艦中の昭和18年3月、艦内の発電機の点検中に右手を巻き込まれ、親指以外の指を失う事故に遭遇。利き手の指を失ったため、その後、仕事を転々として労苦したが、戦後は木工職人として生計を立てた。

S6-3字を書く手を受傷して (10分50秒)

昭和18年に学徒出陣で海軍に入団した証言者は、20年2月23日、小笠原諸島父島で米軍の空襲を受け機銃弾により右手と右足を負傷した。直ちに近くの壕の野戦病院で治療を受けた。内地に還送され病院でリハビリに励んだ。利き手の障害を克服して、戦後は新聞記者として働いた。

S6-4衛生兵のビルマ戦線 (21分38秒)

陸軍衛生兵として南方に送られ、負傷兵を助けながらも自らも3度の負傷。ビルマでの3度目の負傷の後、転進命令を受け数日間の退避行の末、プノンペンの兵站病院にたどり着き治療を受ける。一方で日本では、証言者を見送った当時、いいなづけだった妻は、寺で寒行をするなどして無事を祈っていた。

S6-5伸びきった最前線での受傷 (11分13秒)

昭和17年2月に現役入隊。陸軍の歩兵として中国での警備と戦闘にあたるが、作戦では補給がないまま行軍を続けた。20年5月、中国湖南省で敵に狙撃され下顎骨貫通銃創。すぐに後送され治療を受けたが、舌を負傷したため、食べることや話すことに不自由を感じる時がある。今でも敵に追われる夢を見ることがあるという。

S6-6傷痍軍人の妻として (11分56秒)

戦争中に結婚した傷痍軍人の妻の対談。証言者の夫は昭和17年8月に中国で右眼を負傷し失明。その後、大阪の陸軍病院で療養中、看護婦をしていた現在の妻(証言者)と出会い、翌18年に結婚。もう一人の証言者の夫は昭和19年12月、フィリピンにて右足を負傷。昭和19年に現在の妻(証言者)と見合い結婚をしたが、すぐに戦地に赴いたため、結婚後初めて顔をあわせたのは、負傷後の入院先の病室だった。その後の生活の労苦を語る。

S6-7受傷した身にまた召集が (10分08秒)

昭和17年2月に現役入隊し、中国北部で初年兵教育を受けた後、警備と掃討作戦に従事。思わぬ天候の急変で凍傷にかかり、左指3本を切断手術を受ける。その後、現役免除となり退院、結婚するが、終戦直前に傷痍軍人となった自分にも召集がかかり驚いた。負傷前は市電の車掌をしていたが指の負傷で復帰はあきらめ、戦後は菓子屋を営んだ。

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