S7-1初年兵の沖縄戦 (34分36秒)
昭和20年5月14日、入隊後すぐに右足を受傷(当時19歳)し病院壕に運ばれた。戦況は次第に悪化し病院も退避することになったが、歩行できない患者は壕に残され、練乳と青酸カリが配られた。戦友に励まされ、這いながらの脱出行を決意。糸満までの道のりは長かった。
S7-2母に支えられて… (30分50秒)
昭和19年、17歳で陸軍兵站部の事務員となり、翌年4月23日、沖縄南風原(はえばる)での負傷で右腕を失う。更に6月、退避していた壕内に投げ込まれた黄燐弾で、顔面と足に火傷を負う。終戦後、生きる気力を失い反抗の日々を送る証言者を涙で諭した母。偶然見つけた沖縄厚生園の保母募集の新聞記事が、その後福祉一筋に働いた人生の端緒となった。
S7-3義勇隊の一員として (22分03秒)
昭和19年9月、17歳で義勇隊に志願。翌年4月16日、沖縄伊江島の戦闘で右眼を負傷し、眼球摘出。くぼんだ眼窩をサングラスで覆って過ごした終戦後の日々。得意だったスポーツを諦め、高校進学も断念。義眼を装着して希望と勇気を取り戻したものの就職試験は次々不合格。運転免許を取得できなかったことは生涯の無念。そんな証言者を支えたものは?
S7-4ひめゆりの悲劇 (32分39秒)
昭和20年3月、師範学校女子部3年在学中に動員を受け、看護婦生徒としてはえばる南風原陸軍病院に勤務。戦況が悪化し病院は南部の壕へ撤退。米軍に囲まれた中で解散命令が出され、先生と生徒は懸命な退避行を余儀なくされた。6月21日、壕内に打ち込まれたガス弾で左膝を砕かれた。無為に過ごした戦後の日々に父が与えた一本の杖。恩師の勧めで足を引き摺りながら37年余、教壇に立ち続けた。