S9-1遠くなってしまった傷心の日々(13分12秒)
昭和12年秋に、中国の戦闘にて左腕を負傷、その後、日本に送られ陸軍病院で左腕を切断した。そのため家業の漁業を継ぐことをあきらめ、事務の仕事につくため大阪に出て、鉄工所に就職した。しかし終戦にともない金沢に戻り、時には米の運び屋などの闇屋稼業を経験するなど、仕事を転々として、右腕一本で家族を支えた。戦争中に国から支給された義手3本は、その重さのために全く使わなかった。
S9-2かけがえのないはらから(同胞)とともに(14分49秒、元日本赤十字社救護看護婦)
日本赤十字社の救護看護婦として大阪の病院に勤務していた証言者は、昭和18年に召集がかかり、石川の第488救護班の一員として戦地ビルマに派遣され、陸軍の兵站病院の外科病棟勤務となった。軍医や衛生兵とともに前線から運ばれてくる傷病兵の看護にあたったが、戦局の悪化にともない、転進命令を受け、日赤救護班のみ撤退することになった。それは、ジャングルの中を仲間と励まし合いながら、数ヶ月にわたり歩き通すという苛酷な行程であった。
S9-3『一蓮托生』にかける想い(12分17秒)
17歳で海軍に志願、機関科を志望した証言者はその後、海軍工機学校、海軍潜水学校の課程を修了し、潜水艦に乗ることになる。昭和20年3月に、呉の海軍工廠で潜水艦を修理中、空襲を受け左胸を負傷する。その後、爆弾の破片を体内に残したまま退院し、ふたたび内地勤務となり終戦をむかえた。亡くなった戦友や生き残った戦友の体験を伝えるために、歌詞しかわからなかった海軍潜水学校の歌の復元に奔走するなど、戦後は戦友会などの活動にあたる。
S9-4言葉に出せなかった母への感謝(15分08秒)
海軍の機関兵として、呉で停泊していた巡洋艦利根に勤務中、空襲による攻撃を受け、左腕を爆弾により負傷、すぐに手当てを受けた医務室で左腕を切断する。その後、海軍病院で療養中に終戦をむかえ帰郷。東京の病院で義手を作った後に、地元で保険の勧誘員など職を転々とするも、手に職をつけるため謄写版の技術などを学ぶ身体障害者の訓練施設に入所する。その後、謄写版の仕事に就くが、不安定な職のため、職業安定所の紹介で繊維会社に勤めながら、夜間学校に通い資格を取得して、その後、繊維会社を興す。
S9-5蟻地獄からの脱出(16分50秒)
18歳で海軍に志願、昭和19年10月に台湾の航空基地に海軍の整備兵として勤務中、空襲で機銃攻撃を受け右眼と両手を負傷し、右眼は失明、左指は3本半ばより切断することになった。昭和21年に復員したが、両親は既に亡くなり、兄弟も戦死した兄と結核で療養中の弟のみで帰る家がなく、親戚の家に世話になりながら生計を立てる。闇市で人夫の世話役などをするも、周囲からは「特攻崩れの三ちゃん」とのあだ名がつくほどに荒れた生活になってきたために、一念発起して土木業に励む。