S1-1義勇隊の一員として  (22分03秒)

昭和19年9月、17歳で義勇隊に志願。翌年4月16日、沖縄伊江島の戦闘で右眼を負傷し眼球摘出。くぼんだ眼窩をサングラスで覆って過ごした終戦後の日々。得意だったスポーツを諦め、高校進学も断念。義眼を装着して希望と勇気を取り戻したものの就職試験は次々不合格。運転免許を取得できなかったことは生涯の無念。そんな証言者を支えたものは?

S1-2傷痍軍人の妻として… (14分45秒)

傷痍軍人の妻三人が労苦を語る鼎談。幼い娘二人を残して夫は他界。相談に行った職業安定所で訓練生募集中との話しを聴き経理部門に入所。資格取得し就職に役立てた妻。夫の傷病、息子の死亡、そして孫娘の病気入院など重なる不幸を乗り切った妻。皆さんそれぞれが体験した生活の労苦を語ります。

S1-3人生を変えた一発の銃弾 (9分38秒)

昭和17年9月、中国河北省の戦闘において敵の手榴弾により右背部受傷。更に20年6月、右足受傷。ガス壊疽と破傷風の危険があり、軍医から切断を告げられた。奉天陸軍病院で二度目の手術を受けた翌日、終戦となる。重傷者だけが残され、1年3カ月間中国を放浪、言語に絶する身障者の苦しみを体験。21年9月、復員。国立相模原病院に入院しながら簿記学校に通学。資格を取得し現在に至る。

S1-4軍旗の下で…身体と心の受傷 (9分40秒)

昭和15年3月、幹部候補生として入隊。17年、中国漢口で戦闘を指揮、激戦の中、左下腿に貫通銃創を負う。指揮官として初めて戦死者を出したことは生涯の心の傷となった。3カ月間、陸軍病院で治療し歩行可能となり病院船で内地に帰還。内地沿岸警備隊指揮官として終戦を迎えた。戦死者への思いを語る 。

S1-5利き腕の障害を乗り越えて (9分27秒)

昭和15年仙台工兵隊に入隊後、ジャワ島、ガダルカナル島、ビルマ等南方戦線に従軍。19年9月、中国雲南省での戦闘で機銃の乱射を受け受傷。衛生兵の応急措置を受け治癒しないまま2カ月間行軍。途中、衣服を熱湯消毒してくれた住民の好意が忘れられない。ベトナムのサイゴンで終戦を迎える。9カ月の捕虜生活を経て21年、復員(帰国)。元の大工仕事を続けたい一心で2級建築士の資格を取得し工務店を開業。父親が障害者であることで子供が言葉のいじめにあったことが不憫でならない。

S1-6障害を超えたおおらかさ (9分26秒)

昭和16年4月、横須賀海兵団入団。17年6月、駆逐艦「荒潮」乗艦中、敵の機銃弾を右足に受ける。病院船「旭丸」に収容されたが、ガス壊疽のため大腿部から切断。内地の海軍病院で療養後、18年3月、兵役免除となり帰郷。元の小学校に復職するも体育の授業に困り退職。翌年、東京高等師範学校に特設された「傷痍軍人中等教員養成所」に入学、数学教師として中学校に奉職。25年結婚。妻も教職に就き多忙な中、夫のため、特別仕立ての手製の下着を作り続けた。

S1-7手の代わりを腕が… (10分30秒)

証言者の二人は戦傷で両腕を切断。手首を割って手指の代わりとする手術をともに受けたお二人の対談。終戦後、故佐藤孝三軍医と出会い、ドイツ式手術(クルケンベルク式)を勧められる。義手装着は実用に適さないと実感していた二人は手術に同意。義手に比較して機能面では優れるものの見た目の悪さで労苦した経験などを語ります。

S1-8偏見・差別・迫害 (10分38秒)

昭和16年1月、中国にてハンセン病発病。病名が確定し内地送還までの差別に満ちた扱いの中、天津病院での中国人の親切が忘れられない。広島陸軍病院へ収容後、宇都宮陸軍病院へ転送される列車に「伝染病患者」と表示され、ただ一人だけで乗車。多磨全生園に移され半年振りで入浴できた時は生き返った心地がした。18年に所内結婚したが断種手術を受けることが条件であった。隔離政策は、平成8年「らい予防法」が廃止されるまで続いた。

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