S29-1奪われた光をバネに(21分6秒)

16歳の時、長崎工業学校の勤労動員として長崎電気軌道株式会社に勤務。昭和20年8月9日、寮で被爆。閃光で眼を塞いだ時、左眼は人差し指が第一関節まで入った。爆風による破片で右眉の上から右の頬を切る。仮説病院で治療を受けた。出身地五島に戻る途中、終戦。顔のケガで子どもに「化け物」と言われる。片目のため船舶免許は取れず船乗りを断念、漁協に勤める。大学病院で眼球の摘出手術を受けて義眼となる。毎朝、義眼の消毒が日課。今は眼だけで済んだことに感謝している。

S29-2心の優しさが生んだ義足の苦しさ(21分18秒)

昭和15年、尋常小学校卒業後、三菱造船所へ。昭和19年入営。平壌航空隊(整備兵)に勤務中、冬の訓練で膝を痛める。放置した部分が悪化、陸軍病院で左脚切断の手術。戦後、切断面から骨が出て小倉の病院で手術。相模原の病院で義足をつける。帰宅後、再度骨が出て大村の病院で再手術。病院の外泊許可をもらい長崎諏訪神社大祭を見物中、偶然にも三菱造船所の係長に会い復職。片脚のため通勤に苦労し、心無い発言に胸を痛める。今は家族が揃っていることに幸せを感じている。

S29-3全てを奪われた少年の再起の人生(22分56秒)

昭和20年、尋常高等小学校2年生で三菱製作所に勤労動員として兵器の部品を制作。8月9日、工場内にいた時に被爆。落下した鉄屑が額にあたり右大腿部にも破片が入る。仮説病院で治療を受けた時、軍医に脚を切るといわれ、切るなら殺してくれと返答。家では家族はじめ多くの人が爆死していた。伯父は全滅と覚悟し全員の死亡届を提出。14歳で戸籍を失った。戦後、戸籍復活に苦労する。脚は曲がらないまま。学歴がないため人より早く出勤し、人の嫌がることを率先してやって今日の地位を築いた。

S29-4受傷が拓いた人生(20分21秒)

砲艦「熱海」に乗船時、米軍機P40による機銃掃射で左脚大腿部を貫通銃創、複雑骨折、右脚盲管銃創となる。上海の海軍病院へ。内地還送で佐世保海軍病院などを転院。戦後、帰宅。嬉野国立病院に再入院。長い間ギブス生活のため左脚が曲がらなくなった。この時知り合った看護婦と結婚。農業の後継を諦め農協に勤務。厳格な父と衝突して家を出る。諫早の大水害で被災した田畑の復旧のため自宅へ戻る。曲がらなくなった左脚のハンディを乗り越えることができたことを語る。

S29-5生かされた人生への感謝(21分18秒)

島原鉄道に勤務中、昭和14年応召。南方作戦でシンガポールのブキテマの戦闘で左腕を貫通銃創、盲管銃創、擦過傷となる。野戦病院で麻酔無しで砲弾の破片を抜かれ、気絶しそうな痛みを経験。病院船で内地還送後、第三陸軍病院で機能訓練を受ける。戦後、左肘は完全に曲がらないため顔を洗えず、ものを握れない。戦場で三度命が助かった経験から人の役にたてるようにと65歳から自費でミニ新聞(A4版)「読んで下さい」を3500枚発行して配布。人生は不自由でも不幸ではないと話す。

S29-6近衛兵の誇りを胸に(19分57秒)

近衛歩兵第三聯隊に配属され中国へ。射撃の名手として活躍し除隊。昭和16年に臨時招集。ダバオからビルマへと転戦。雲南省龍陵県附近の夜間戦闘で右肩と右腕を負傷。戦闘継続中、銃身に当たった弾の破片が顔に十数個入る。眼球摘出は免れたが、右眼の視力はなく明暗のみ。戦後、負傷のため皇宮警察への推薦も辞退。結婚でき、苦労して運転免許を取得。弾の破片で人の顔が覚えにくいが、ケガをしたことで今日の自分があると感謝。戦争は敵も味方も不幸になると、戦争反対を説く。

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