S47-1手の代わりを腕が・・・(10分44秒)

証言者の二人は戦傷で両腕を切断。手首を割って手指の代わりとする手術をともに受けたお二人の対談。終戦後、故佐藤孝三軍医と出会い、ドイツ式手術(クルケンベルク式)を勧められる。義手装着は実用に適さないと実感していた二人は手術に同意。義手に比較して機能面では優れるものの見た目の悪さで労苦した経験などを語る。

S47-2軍旗の下で・・・体と心の受傷(09分54秒)

昭和15年3月、幹部候補生として入隊。17年、中国漢口で戦闘を指揮、激戦の中、左下腿に貫通銃創を負う。指揮官として初めて戦死者を出したことは生涯の心の傷となった。3カ月間、陸軍病院で治療し歩行可能となり病院船で内地に帰還。内地沿岸警備隊指揮官として終戦を迎えた。戦死者への思いを語る。

S47-3義足で、田んぼでも畑でも働いた(10分07秒)

昭和17年入隊、中支へ。18年、迫撃砲弾を受け右足受傷。一週間後、病院長から切断することを告げられる。南京陸軍病院で治療後、内地送還。臨時東京第一陸軍病院に入院しリハビリに励む。一本足で生きる覚悟をするが、退院して帰郷、一人になった時には淋しかった。20年、結婚。農協に勤めたが27年に退職し農業に従事。義足での農作業は苦労の連続であった。義足の耐用年数は3年といわれているが、作業で汗をかくため1年程度で使用できなくなった。妻の献身に支えられて続けてこられた。

S47-4馬とともに戦った戦場(10分04秒)

昭和19年1月入営、輜重隊※に配属され中支へ。同年9月、患者輸送の野営中、敵の迫撃砲により左眼を受傷。幸い患者に怪我はなく引き返して病院へ送り自身も入院。医薬品、食糧ともに不足する状況で満足に眼の治療を受けられないまま原隊に復帰。南京にて幹部候補生教育受講中に胸膜炎発病。奉天陸軍病院に後送され安東分院入院中に終戦となる。21年に復員。胸膜炎後遺症のため軽作業すら負担になる。妻には病弱であること、片眼失明していることを知らせずに22年、結婚。50年を経て眼痛発症し現在も続いている。
※弾薬、糧秣など軍需品の運搬に加え、衛生隊や野戦病院を含め輜重という。

S47-5衛生兵の受傷(09分51秒)

第四特別陸戦隊衛生隊に属し南方各地に従軍。ガダルカナルのジャングル内では、食糧、医薬品ともに欠乏し栄養失調、マラリアに罹患。内地還送後、再び戦地へ。昭和19年9月、レイテ沖で敵機の爆撃により左足負傷。胸に巻いたサラシで止血し這って逃げた。帰還後、21年4月、京都日赤病院で左下腿切断手術を受ける。義足は蒸れやすく、蒸れると断端部の皮膚が剥け義足の装着が困難となるため、靴下を持ち歩き頻繁に取替え対処している。このような生活が切断以来ずつと続いている。

S47-6頭部損傷の夫を支えて(20分28秒)

南方の戦闘で顔面投下爆弾破片創となる。千葉陸軍病院で義眼・義歯を挿入。頬部貫通のため上下の歯と舌を損傷。歯は奥歯のみ。昭和21年退院。視力回復せず就職しても仕事は手伝い程度。昭和22年、姉の紹介で結婚。昭和27年春、左官業に戻るが、視力不足のため壁の下塗程度。てんかんの発作を起こして何度も自殺を図った。田畑の作業は全て妻がこなした。77歳で他界。最後までてんかんと頭痛に苦しめられた。

S47-7不自由さを胸に秘めて(18分31秒)

昭和14年、国鉄に勤務。陸軍へ入営。昭和20年、中国湖南省の戦闘にて受傷。眉間から右耳下にかけて貫通銃創。右眼は明暗のみ、右耳は聞こえない状態のため、銃を撃つことはできなかった。その翌月に終戦。上海で武装解除。昭和21年3月、博多から実家へ帰った。国鉄に復職。昭和25年親戚の紹介で結婚。右眼・右耳のことと傷痍軍人であることを隠して結婚。右眼は7~8年前に失明。

Related Contents

団体見学・貸出ツール