ホーム/ 内容紹介/ DVD Vol.49
内容紹介

当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。

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49−01

暖かい支援にささえられて〜傷痍軍人としての誇りと生きがい〜(09分55秒)

昭和12年10月、中国山西省での戦闘で脊髄を損傷し下半身麻痺となる。内地に還送され東京第一陸軍病院に入院。16年、親身に治療を続けてくれた軍医から傷痍軍人箱根療養所への入所と温泉療養を勧められ、帰郷を断念して入所を決意。16年11月兵役免除となり療養所へ入所。以来、今日まで同所において療養生活を送る。所内でのサークル活動、短歌が縁で結婚した妻への思いなどを語る。

49−02

受傷の労苦と葛藤を超えて(09分39秒)

昭和12年5月、千葉県習志野の演習場で演習中、落馬により腰骨骨折、下半身・腰部麻痺となる。陸軍病院に収容されたが助かる見込みが無いと思われ、ほって置かれた。父や弟、同年兵の介護で病院生活をおくるが、排便には大変労苦をした。19年9月、傷痍軍人箱根療養所へ入所、以来、今日まで同所にて療養生活を送る。終戦後の食糧難の時代、所内で竹細工を作って生活費に充てた。月1回の温泉入浴を楽しみにしている。介護をしてくれた弟は21歳で戦死、自分は21歳で負傷したが元気でいる。人生の不思議を感じる。

49−03

療養所は大きな家族〜支えあい、助けあい〜(09分54秒)

昭和16年10月、中国河南省にて作戦従事中、銃撃被弾して城壁より落下し下半身麻痺となる。内地に還送され、臨時東京第一陸軍病院を経て、18年6月、傷痍軍人箱根療養所に入所。以来、今日まで同所にて療養生活を送る。21年、結婚。GHQの占領政策下、軍人恩給が停止され苦しい生活を所内での竹細工作りと生活保護とで切り抜けた。療養所は支えあい助けあう大きな家族だったと、夫人はしみじみ述懐。

49−04

二人三脚で六十年余り(09分34秒)

結婚後、間もなく入営。昭和19年、満洲において戦車壕作戦中、次第に右足の感覚が鈍くなり医務室受診。ハイラルでの入院生活を経て20年3月、松葉杖姿で内地に帰還。入院中に終戦となり退院し帰郷。21年3月、国立相模原病院(旧東京第三陸軍病院)で右足切断手術を受ける。将来への不安が膨らむ中、社会復帰に向けジュラルミン製の義足をつけ歩行訓練に励んだ。義足には通気性がないため、注意を怠るとむれて皮膚が破れ、義足を着けることができない。汗取りのため常に靴下の替えを持ち歩いているという。片足でたずさわった仕事の辛さなどを語る。

49−05

誠(まごころ)で守られた命―ニューギニア戦線にて―(18分24秒)

見習士官として歩兵第224連隊に配属。隊附の少尉として南方へ移動し、昭和18年12月、ニューギニア島に上陸。敵情偵察中、肩と腕を銃撃戦で負傷するも司令部に帰り着き、任務を全うする。これにより師団の総攻撃が開始され、自分も参加。迫撃砲により左足切断の重傷を負い、放置されたままとなるが、司令部からの救助隊に間一髪のところで助けられる。その後、マラリアで衰弱したが、昭和21年復員。後に結核に罹る。戦場で生死の境をさまようなど、波乱の人生であったが、常に心の支えとなったのは、小学校時代からの恩師の教え―誠(まごころ)―である。

49−06

多くの人に助けられて(18分17秒)

昭和17年、第56期で陸軍士官学校を卒業。第20師団野砲兵第26聯隊に配属され、砲車小隊長として、ニューギニアに着任。昭和18年11月27日、フィンシュハーフェン附近での戦闘で受傷。繃帯所で打ってもらった注射のおかげで、結果的に足の切断を免れた。内地還送後、朝鮮にあった留守部隊に原隊復帰し、済州島にて終戦。戦後、荒廃した国土復興という願いから、建設会社に入社。歩く事もままならないという障害を抱えながら、周囲の人々の協力があって、今日まで生きながらえられることができたことを語る。

49−07

インパール作戦の最前線で―隊附軍医の記憶―(19分46秒)

昭和18年、軍医学校を卒業。第33師団歩兵第213聯隊附軍医として配属され、ビルマに出征。昭和19年に着任。前線で隊附軍医としての過酷な任務につく。常に負傷兵の救命を第一とし、半年あまりも激しい攻防を続けた部隊にいたが、転進を余儀なくされる。前線から下がる途中で見た野戦病院は、病院機能を全く失った中に重症患者などがいる悲惨な状況であった。途中で自らもマラリア熱に罹り、危篤状態にまで陥った。復員後、大学病院から民間病院に勤務。その後、地元で開業医となる。第一線での隊附軍医という過酷な体験を通し、医療に対しての思いを語る。

49−08

元海軍薬剤少尉の記憶(18分42秒)

昭和18年9月に東京薬学専門学校(現東京薬科大学)を卒業。半年間、大学で研究生活を送った後に海軍を志願し、昭和19年7月に新設された海軍軍医学校戸塚分校に入学。昭和20年1月に卒業し、薬剤少尉となり横須賀海軍病院に配属される。横須賀鎮守府管下の各病院、艦船や潜水艦、部隊、海軍の各種学校へ治療品の供給を扱う療品科の担当となる。昭和20年7月の横須賀空襲の際は、同病院も被害を受け、当時、病院の警備隊長として患者を防空壕に退避させ、被災した重症患者の搬送などの任務にあたった。

49−09

箱根療養所で暮らした家族の10年(16分54秒)

脊髄損傷者を収容していた傷痍軍人箱根療養所で父と共に過ごした10年間を、息子兄弟が振り返る。父は、昭和19年、マニラでの警備任務の際に受傷。脊髄を負傷し、療養のため箱根療養所に入所した。両足切断の父は、子供を抱き上げることもできない体で、車椅子生活であった。母は介護、子供たちもその手伝いをした。脊髄損傷による合併症と闘いながら懸命に生きようとする父の姿を見て、力の限り生き続ける事の大切さを学んだ。