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内容紹介

当館では、証言映像“戦傷病者の労苦を語り継ぐ”を収録しております。これらは、戦争で傷つき、病に倒れた多くの戦傷病者とそのご家族が体験した労苦を現在に語り継ぐ貴重な資料映像です。当館1階の証言映像シアターで約1ヶ月ごとに入れ替えて上映するとともに、情報検索コーナーでも自由に閲覧できます。
また、DVDの団体貸出も無料で行っています。お気軽にお声がけください。

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52−01

生きる・・・それは死ぬよりつらかった(10分02秒)

昭和19年7月、駆逐艦に乗艦中、トラック諸島春島附近で空襲により両腕と左眼を受傷。生きる気力を失い何度も自殺を考えた。横須賀海軍病院を経て海軍軍医学校附属病院へ転院。同病院で多くの重傷患者と出会い生きる希望を得、リハビリ訓練を受けて社会復帰を目指した。21年10月、医師の薦めで手首を割って手指代わりにする手術を受けた。24年結婚。生活のため様々な職に就く。子供と遊べない辛さ、子供がいじめられるのを恐れて授業参観に行けなかった寂しさなどを語る。

52−02

生と死に向かい合った2時間(09分41秒)

昭和18年3月、予科練習生として飛行訓練中墜落事故により右足を負傷し、1年間の入院生活を送る。ブーゲンビル沖海戦に仲間が飛び立つのを焦燥感をもって見送る。19年11月、傷も癒え原隊復帰、サイパン特別銃撃決死隊の偵察機に搭乗。帰還の術無い同隊12機を引率し見守った辛さは言い難い。昭和40年頃、自分が写っている「第一御盾特別攻撃隊」と記された写真に出会い、隊員の消息調査を決意、漸く「甲飛八期のあゆみ」を上梓した。

52−03

失明の恐怖とシベリア抑留(08分46秒)

昭和19年10月、千島列島の小島シムシル島(新知島)で敵の投下爆弾により受傷。軍医から左眼回復の見込みなしと告げられる。占守島で終戦を迎えシベリアへ抑留される。厳寒の中、強制労働に従事、右眼も視力乏しくなり医務室を受診。左眼摘出するも右眼の視力戻らず失明。21年末、帰国。東京の国立光明寮に入所し鍼灸を学び、26年、職を得る。同年結婚。失明により変わってしまった人生、年老いた両親の悲しみを思いやる。

52−04

負けてたまるか!(09分58秒)

昭和18年5月、中国湖南省にて作戦遂行中に受傷。救命のため、軍医から右足切断を告げられやむなく受け入れる。内地に送還され臨時東京第一陸軍病院にて鉄脚(当時、義足は鉄製であったためこう呼ばれた。)装着による片足行軍などの厳しいリハビリを受け、左足が鍛えられた。25年結婚。負けず嫌いな性格から、健常者と変わりない生活を心掛けているが、これも、妻の支えがあってこそ可能。妻は、右足切断の夫を気遣い常に右側に立ち支えられる態勢をとっているという。

52−05

手の代わりを腕が・・・(10分44秒)

証言者の二人は戦傷で両腕を切断。手首を割って手指の代わりとする手術をともに受けたお二人の対談。終戦後、故佐藤孝三軍医と出会い、ドイツ式手術(クルケンベルク式)を勧められる。義手装着は実用に適さないと実感していた二人は手術に同意。義手に比較して機能面では優れるものの見た目の悪さで労苦した経験などを語る。

52−06

偏見・差別・迫害(10分48秒)

昭和16年1月、中国にてハンセン病発病。病名が確定し内地送還までの差別に満ちた扱いの中、天津病院での中国人の親切が忘れられない。広島陸軍病院へ収容後、宇都宮陸軍病院へ転送される列車に「伝染病患者」と表示され、ただ一人だけで乗車。多磨全生園に移され半年振りで入浴できた時は生き返った心地がした。18年に所内結婚したが断種手術を受けることが条件であった。隔離政策は、平成8年「らい予防法」が廃止されるまで続いた。

52−07

利き腕の障害を乗り越えて(09分52秒)

昭和15年仙台工兵隊に入隊後、ジャワ島、ガダルカナル島、ビルマ等南方戦線に従軍。19年9月、中国雲南省での戦闘で機銃の乱射を受け受傷。衛生兵の応急措置を受け治癒しないまま2カ月間行軍。途中、衣服を熱湯消毒してくれた住民の好意が忘れられない。ベトナムのサイゴンで終戦を迎える。9カ月の捕虜生活を経て21年、復員(帰国)。元の大工仕事を続けたい一心で2級建築士の資格を取得し工務店を開業。父親が障害者であることで子供が言葉のいじめにあったことが不憫でならない。

52−08

傷痍軍人の妻として・・・(14分58秒)

傷痍軍人の妻三人が労苦を語る鼎談。幼い娘二人を残して夫は他界。相談に行った職業安定所で訓練生募集中との話しを聴き経理部門に入所。資格取得し就職に役立てた妻。夫の傷病、息子の死亡、そして孫娘の病気入院など重なる不幸を乗り切った妻。皆さんそれぞれが体験した生活の労苦を語る。

52−09

歌声に祈りをこめて〜水谷 俊夫さんの証言〜(22分55秒)

昭和16年3月に音楽学校を卒業してから一年余り音楽教師をした後、昭和17年1月に陸軍に入隊。満洲の部隊に配属されるが、その年の秋、右足を負傷。しばらく療養してから、日本の病院に送られる。入院中の病院で、療友とともに患者を慰安するため演芸会を開催。退院後も当時の国策団体であった大政翼賛会の指示のもと、学校時代の仲間とともに全国の病院や学校、軍隊へ慰問にまわる。慰問先の病院で体験したつらい想い出を語る。

52−10

国のために生きて〜元海軍軍医中尉の記憶〜(22分46秒)

昭和19年に東北帝国大学医学部を卒業。その年に新設された海軍軍医学校戸塚分校に進む。昭和20年1月に同校を卒業し、軍医中尉に任官。愛知県にあった第2河和航空隊に配属された。同隊は搭乗員の飛行訓練を行っていたため、基地にて隊員の健康管理や飛行訓練中の事故による負傷者の救護にあたる。その後、昭和20年6月に徳島にあった第584設営隊に配属され、本土決戦を前に飛行場を建設する部隊の医務隊長として、終戦まで隊員の健康管理や診察にあたる。

52−11

本土決戦前の軍医教育〜元陸軍衛生部見習士官の記憶〜(20分28秒)

昭和17年に東京医学専門学校(現東京医科大学)入学後、陸軍衛生部の依託生徒の試験に合格し、在学中から軍隊教育を受ける。学校卒業直前の昭和20年3月10日、東京の大空襲に遭遇し、当時、同校の附属病院の防空当直をしていたため、病院に次々と運ばれてくる被災者の救護にあたった。
同年4月に陸軍軍医学校に入り、教育期間を4ヶ月に短縮され、見習士官として具に必要な衛生教育や戦術等を学んでいたが、演習中に終戦を迎えた。

52−12

看護ひとすじ〜フィリピンで終戦を迎えた救護看護婦〜(21分28秒)

高等女学校卒業後、昭和11年に日赤の看護婦養成所に入る。3年間の教育を受け、卒業後、昭和14年春に臨時第21救護班の一員として中国石家荘にある陸軍の兵站病院に派遣され、傷病兵の看護にあたる。昭和16年に一時帰国し、国内の病院に勤務していたが、昭和17年2月に第315救護班の配属となり、フィリピンマニラの兵站病院に派遣された。南方の戦地から運ばれてくる傷病兵の受け入れ業務に従事していたが、戦況の悪化に伴い、昭和19年3月にマニラからフィリピン北部の病院に転属となり、以後北へ移動することになった。途中で負傷兵と別れて、救護班の仲間とともに山中に逃げていた途中で終戦を知る。

52−13

天地の恵みを知る〜ニューギニアで終戦を迎えた軍医〜(20分04秒)

昭和16年3月に慶応義塾大学医学部を卒業。同年10月に陸軍に入隊。京城(現ソウル市)の歩兵部隊で2ヶ月間訓練を受け、同年12月末に軍医中尉に任官。翌17年1月に北支那防疫給水部に配属され、中国山西省に駐屯し、駐屯地の水源の水質検査や部隊の隊員の健康管理など、防疫給水活動に従事。昭和18年11月に上海から西部ニューギニアに移動。到着後、自らも発熱腸出血を患い、2ヶ月間、サルミで療養生活を送る。昭和19年4月から米軍の攻撃開始、翌5月に米軍が上陸すると野戦病院はジャングル奥地に退避。その後終戦まで現地で自活する生活を送り、昭和21年6月に復員。

52−14

人間の尊厳の回復につくした生涯(33分07秒)

東京市養育院に勤務中に召集を受け、昭和17年4月に陸軍入隊。中国山西省の師団司令部付きとなったが、昭和18年7月30日に乗っていたトラックが敵の地雷に触れ身体ごとはね飛ばされ右肘を負傷。腕は薄皮一枚でつながったが、搬送先の病院で治療のため上膊の切断手術を受ける。内地還送後、病院で義手を受け取り昭和19年11月に退院。戦後は傷痍軍人会の活動に従事し、脊髄損傷やハンセン病の戦傷病者などを含む多くの戦傷病者の福祉のために尽力した。

52−15

南方の戦火をくぐった救護看護婦(14分29秒)

昭和13年から3年間、宮城の日赤看護婦養成所で教育を受け、卒業後、昭和16年10月に第205救護班の補充員として東京の陸軍病院に配属となる。同年12月からの太平洋戦争開始後、第320救護班に転属となり、昭和17年1月から台湾の台北陸軍病院、昭和18年6月からフィリピンマニラにあった南方第12陸軍病院、その2ヶ月後にラバウルのココポ第103兵站病院、翌昭和19年1月にはパラオのコロール島の第123兵站病院に勤務した。南方では、ジャングルの中の伝染病棟で腸チフスなどを患った戦病患者などの看護に従事した。

52−16

兄嫁と結婚してつかんだ幸せ(19分29秒)

昭和20年米軍との銃撃戦で右大腿部盲管銃創となる。米兵に救助され野戦病院に収容。傷口から膿と血が出るため、毎日ガーゼを交換。昭和26年結婚。妻は戦死した兄の嫁。妻が営んだせんべい屋を手伝った。昭和40年恩給申請したが、外地に行った記録がないため恩給対象とならなかった。傷口の治療時、親指の爪大の破片が2個出てきた。米国大使館で調べてもらった結果、野戦病院にいた事実が証明され傷痍軍人に認定。