今回ご紹介するのは、傷を受けた身体の部位が異なる4名の戦傷病者からご寄贈いただいた資料です。
戦傷病者は、戦中・戦後を通して言葉では言い表せないほどの苦しみや辛さを抱えて生きてきました。さらに、傷を受けた体の部位や病気の種類によっても、その労苦は人それぞれにさまざまなものがありました。
頭部に傷を負った場合は、意識の消失やけいれんなどの症状が起こる後遺症に悩まされ続けました。腕や脚に傷を負った場合は、物をつかむことや歩行などの日常生活における動作が困難になります。病に罹った場合は、見た目だけでは判断がつかず、かえって周囲の人から理解されづらいという労苦がありました。
ここでは、異なる労苦を体験された4名の戦傷病者の寄贈資料を紹介します。
会期: 令和4(2022)年1月5日(水)~3月13日(日)
会場: しょうけい館1階 企画展示室
入場料: 無 料
開館時間: 10:00〜17:30(入館は17:00まで)
休館日: 毎週月曜日
エピソード1「頭部に傷を負った戦傷病者」
爆撃により瀕死の重傷を負う
Aさん(仮称)は、昭和20(1945)年、呉の軍港に停泊中の戦艦に乗船していた時に、米軍機の攻撃を受け、瀕死の重傷を負いました。爆撃により海に投げ飛ばされ意識不明のまま3日間漂流していたところ、奇跡的に救助されました。しかし、7ヶ月間も意識が戻りませんでした。
手術の失敗により両眼失明となる
意識が戻った後、いくつかの病院を転院し、何度も手術を受けました。この時、右眼の裏側には爆弾の破片が残っていたため摘出手術が行われました。しかし、終戦間際で手術器具も不足していたため、左眼の視神経まで切断され両眼失明となってしまいました。
両眼失明以外にも病を患う
さらに、脳にダメージを負っていたため、てんかんの発作に加え、味覚や臭覚障害にもなってしまいました。食べ物の味やにおいを感じ取ることができないので、時には目の前にあるおしぼりを口に入れてしまうことさえありました。
鍼灸師として働いた人生
戦後、中途失明者のための更生施設を卒業し、東京で鍼灸師として修行しました。10年後の昭和30(1955)年に故郷の名古屋へ帰り、治療院を開きます。
両眼失明、てんかん、さらには味覚や臭覚障害というさまざまな障害を負いましたが、献身的な家族の支えもあり、80歳までほとんど毎日鍼灸師として働き続けることができました。
展示資料
エピソード2 「腕に傷を負った戦傷病者」
事故により右腕と右足の指を切断
Bさん(仮称)は、昭和17(1942)年、横浜の本牧沖にて飛行艇に乗っていた時、機械の故障による事故が原因で、右腕と、右足の五本指を切断する大けがを負いました。救助隊に助けられ、航空隊の病院に収容された時、軍医からは、「あと10分遅かったら出血多量で助からなかった」といわれました。
右腕の手術と特殊な義手の製作
昭和19(1944)年に右腕の手術を行います。手術は、傷口に焼け火箸を突っ込まれるような痛みだったといいます。その後、専門病院で義手を装着する訓練を受けます。戦後、働くためには義手が必要となりますが、支給された義手では細かい作業ができませんでした。電気工事士の資格を取りたかったため、右手で物がしっかりつかめる特殊な義手「能動義手」を製作してもらいました。
電気工事士として働いた人生
能動義手を使用することにより、電気工事士として働けることとなりました。しかし、右腕に相当な負荷がかかり、装着するたびに苦痛が生じました。定年までほとんど毎日義手を装着していましたが、定年してからは、義手を装着する必要がなくなり、ようやく腕の痛みも和らいだと語っています。
展示資料
エピソード3 「足に傷を負った戦傷病者」
シベリア抑留中に右脚切断
Cさん(仮称)は、昭和22(1947)年、シベリア抑留中の作業時に送風機に脚を巻き込まれ、右脚を切断する重傷を負いました。事故にあった瞬間、右脚の傷口から鮮血がふき出しているのを目の当たりにします。関節が複雑骨折していたため、右脚を切断しなければならなくなりました。
義足の製作
復員後、東京の国立病院で診察を受け、義足を製作してもらいます。右脚を切断した時から松葉杖を使用しないで一人で歩けるようになりたいと思っていました。義足を装着することで一人で歩行できるようになり、この思いを遂げることができました。
義足での仕事
その後、東京の職業訓練所で洋裁を学びます。地元の島根県に帰省した後に洋裁店を開きます。義足での立ち仕事は苦痛を伴いましたが、家族の支えもあり、60歳まで仕事を続けることができました。
傷の痛みと晩年の思い
年齢とともに脚に痛みが走るようになり、右脚の切断部分には、頻繁に傷ができるようになります。しかし、過酷なシベリア抑留生活と右脚切断という苦労を経験したことで、「過去をくやむわけではなく、今日あることに感謝し、明日があればさらによし」という思いで前を向いて生きてきたと語っています。
展示資料
エピソード4「病気になった戦傷病者」
シベリア抑留中に珪肺に罹る
Dさん(仮称)は、終戦から昭和22(1947)年までの2年間にわたり、シベリアに抑留されました。この時、鉱山での採掘作業に従事していたことが原因でシベリア珪肺に罹ってしまいます。復員後、昭和30(1955)年の結核集団検診でシベリア珪肺に侵されていることが判明します。
療養生活を送る
昭和43(1968)年に肺結核を併発し、翌年には地元の山形県の療養所に入院することとなります。多額の治療費がかかってしまい、家族にも迷惑をかけて申し訳ないという気持ちだったと語っています。1年半後には退院し、今まで以上に一生懸命働きました。しかし、体に無理が生じてしまい、病状が悪化したため再度入院、療養生活を送ることとなりました。
退院後の生活
退院後は仕事量も少なくし、決して無理をしないように自己管理を徹底しました。それでも、10分ほど話をするだけでも息切れしてしまうほど身体は弱っていました。働けない身体を支えてくれた家族がいたからこそ、ここまでやってこられたと語っています。