【お知らせ】しょうけい館は2・3階です。他の階はオフィスとなりますので立ち入りはご遠慮ください。

今回のミニ展示は1964年東京パラリンピックに関する当館所蔵の資料を紹介しております。

 今年8月24日から9月5日の12日間、東京で2回目となるパラリンピックが開催され、盛況のうちに幕を閉じました。日本からは277名の選手が出場し、金メダル13、銀メダル15、銅メダル23の計51個のメダルを獲得しました。この記録は、2004年のアテネ大会に次ぐメダル獲得数であり、出場選手ひとりひとりが素晴らしい活躍をされました。
 さて、パラリンピックという名前は、脊髄を損傷するなどした両下肢麻痺者「Paraplegia(パラプレジア)」とオリンピック「Olympic(オリンピック)」の2つの言葉をつなげて、1964年の東京大会の時に初めてつけられたとされています。(※諸説あり)あまり知られていませんが、この1964年の大会は、第1部の国際ストーク・マンデビル競技大会(国際大会)と第2部の国際身体障害者スポーツ大会(国内大会)に分かれて開催されました。
 その頃の日本は、戦後からの復興を急ぐ高度経済成長の時期でしたが、一方で障がい者と共生する社会システムなどは十分に整備されておらず、障がい者がスポーツに取り組むことは一般的ではありませんでした。そのため、パラリンピックに出場する選手は脊髄損傷を専門とする病院や療養所から集められ、そこから参加する競技種目の練習が始められるといった状況でした。
 日本代表選手は53名が出場し、その内2名が戦争による怪我が原因で車いす生活となった戦傷病者でした。この2名の選手は複数の競技でメダルを獲得するなど、大活躍をされました。
 ここでは、パラリンピックに出場した戦傷病者が獲得したメダル(レプリカ)や競技記録書、さらにはパラリンピックのカラー記録映画などの資料を展示し、1964年東京パラリンピックに出場した戦傷病者とその活躍を紹介します。

《展示風景》
《展示風景》
会場では1964年の東京パラリンピックカラー記録映画が鑑賞できます。

会期: 令和3(2021)年9月14日(火)~12月26日(日)
会場: しょうけい館1階 企画展示室
入場料: 無 料
開館時間: 10:00〜17:30(入館は17:00まで)
休館日: 毎週月曜日

「1964年東京パラリンピック」

 1964年の東京パラリンピックは、第1部の国際ストーク・マンデビル競技大会(国際大会)と第2部の国際身体障害者スポーツ大会(国内大会)に分かれ、メイン会場となる織田フィールド(代々木公園陸上競技場)で開催されました。
 通常、パラリンピックと呼ばれているのが第1部の国際大会であり、脊髄損傷及び下半身麻痺で車椅子を使用する選手が22ヶ国から参加しました。日本代表選手は53名が出場し、金メダルを1つ、銀メダルを5つ、銅メダルを4つの競技で獲得しました。第2部の国内大会は車椅子を除く身体に障がいを持った(肢体不自由・視覚障がい・聴覚障がい)選手が参加しました。
 また、当時の日本では障がい者スポーツが一般に認知されていませんでした。そのため、パラリンピックの運営委員会は資金獲得のために一目で分かるようなポスターを製作したり、民間会社と協力してレコードを発売するなど様々な広報活動を行いました。

展示資料は、運営委員会が広報活動に用いた1964年東京パラリンピックのポスター(複製)と、関連するレコード、パラリンピックを観戦した方から寄贈された案内状です。

《ポスター 「PARALYMPIC TOKYO 1964」》
1964年東京パラリンピックの室内用公式ポスター。競技の様子が分かる写真を配したデザインとなっています。
《パラリンピック御案内》
東京パラリンピックを観戦した方から寄贈された案内状。競技種目の日程と、メイン会場である織田フィールド周辺の案内図が記されています。
《レコード 「PARALYMPIC TOKYO 1964」》
レコードは優れた情報発信手段の一つでした。パラリンピックは当時、一般的にまだ認知されおらず、資金が少なかったため、民間会社の協力によってこのレコードが発売されました。
《レコード「パラリンピック賛歌」》
ビクターレコードより発売されたもの。「パラリンピック賛歌」と「美しき日本」が収録されています。

「パラリンピックに出場した戦傷病者」

 1964年東京パラリンピックでは、第1部、第2部ともに戦傷病者が出場しました。第1部では、日本代表選手53名のうち2名が戦争による怪我が原因で車いす生活となった戦傷病者でした。この2名の選手は複数の競技でメダルを獲得するなど、大活躍をされました。
 続く第2部の国内大会においても、確認できる限り6名の戦傷病者が出場した記録が残っています。戦傷病者ひとりひとりがスポーツに打ち込んできたことが分かります。

【第1部 国際大会で活躍した戦傷病者】

青野繁夫(あおのしげお)さん

 青野さんは昭和18(1943)年に出征先の中国で腰部を受傷し、両脚に障害を負いました。戦後、長期療養を目的として脊髄損傷専門の施設である国立箱根療養所に入所しました。
 大会では、水泳(完全麻痺/50m仰向自由形)で2位、フェンシング(団体)で2位の2つのメダルを獲得しただけでなく、選手団の代表を務め、開会式では選手宣誓を行いました。

青野さんに関する詳細な内容はこちらで紹介しております。

松本毅(まつもとつよし)さん

 松本さんは昭和20(1945)年11月にフィリピンのレイテ島にて米軍キャンプ建設中に樹上から落下し、脊髄損傷となりました。その後、国立箱根療養所に入所しました。
 大会ではアーチェリー(団体:F.I.T.A、アルビヨン)で2位、ダーチャリー(団体)で3位という記録を残しました。

【第2部 国内大会で活躍した戦傷病者と競技記録】

伊藤 剛(いとう たけし)さん

水泳50m自由形・男子(片下肢不完全機能障害) 第4位

楳田 正信(うめだ まさのぶ)さん

水泳25m自由形競泳男子(片上肢不完全機能障害) 第5位
走巾跳・男子(片上肢不完全機能障害) 第16位

釜崎 幸晴(かまさき ゆきはる)さん

立巾跳・男子(片大腿切断) 第2位
砲丸投・男子(片大腿切断) 第3位

叢 良成(そう よしなり)さん

砲丸投・男子(片下肢不完全機能障害) 第2位

豊田 俊雄(とよだ としお)さん

100m障害競歩・男子(両下腿切断) 第1位
砲丸投・男子(両下腿切断) 第1位

松田 憲(まつだ あきら)さん

立巾跳・男子(両前腕切断) 第4位

『東京パラリンピック パラリンピック国際身体障害者スポーツ大会 写真集』を参考に作成

 展示資料は、国際大会に出場した青野さんが獲得した2つの銀メダル(レプリカ)と、パラリンピックの運営委員会がまとめた競技記録、箱根療養所の入所者が青野さんと松本さんに祝電を打った回覧簿です。

《銀メダル(レプリカ)「水泳」2位》
青野さんが獲得した水泳(完全麻痺/50m仰向自由形)の銀メダル。
《銀メダル(レプリカ)の裏側》
メダルの裏側にはストーク・マンデビル病院のマークが施されています。
《銀メダル(レプリカ)「フェンシング」2位」》
青野さんが獲得したフェンシング(団体)の銀メダル。練習期間はわずかであったが、とにかくやり抜き通したことと、周囲の人のおかげでメダルを獲得することができたと参加選手の感想に記されています。
《国際身体障害者スポーツ大会 競技記録》
東京パラリンピック第1部と第2部の各競技における競技成績をまとめたもの。フェンシングサーブル団体の競技に青野さんの名前が記されている。
《回覧簿》
青野繁夫さんと松本毅さんが入所していた箱根療養所の傷痍軍人会の回覧簿。戦傷病者の代表として出場した2名がメダルを獲得したため、祝電を打ったことが記されています。

「パラリンピックカラー記録映画」

 当館は、1964年東京パラリンピックのカラー記録映画を所蔵しています。第1部国際大会の様子を収めたカラーによる記録映画は、現在確認されているものではこの作品しかありません。
 映画には、開会式の様子や15種目の競技、会場周辺が記録されています。また、日本選手団団長で医師の中村裕氏などが実施した外国人選手の実態調査の調査結果と、各競技の概要や種目区分(障害別)の紹介、日本選手と外国選手の社会環境の差異などがナレーションで紹介されています。

Related Contents

2021年