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Episode Ⅰ

足根義足
H230/390g
恩賜の義足
H230/415g
1939(昭和14)年に受領

 この義足の持ち主は、1937(昭和12)年、陸軍に入営し、同年12月に中国江蘇省の戦闘で右腕、次いで右足の先端を受傷しました。野戦病院へ収容され、局所麻酔でかかとを残しての切断手術を受けました。メスが入るたびに悲鳴を上げる程の激痛だったため、衛生兵が三人がかりで押さえて手術をおこなったといいます。この時の処置について、設備も物資も十分ではない野戦病院でのことだから、それは仕方なかったのかと思うと回想しています。

 その後、日本へ還送されて陸軍病院へ入院し、受傷部周辺の手榴弾や小銃弾の破片を摘出するための再手術を受けました。この時軍医から、かかとを残した足では痛みを伴って歩きにくいから下腿部を切断して下腿義足を使用する方がよいとすすめられますが、両親は「切断はいつでも出来る、焦って決断しなくてもよい」といい、切断はせずにつま先部分を補う足根義足の支給を受けて退院となりました。

 除隊(退院)後、入営前に勤めていた国鉄へ復職しますが、徒歩通勤の際、歩くたびに切断部位が痛み、傷ができるので苦労したといいます。雪が積もる冬季の通勤で困難が生じ、やむなく退職して役場へ転職しました。転職したのは戦時中のことでしたが、同僚から、「負傷して帰ってきて恩給を貰って儲かっているじゃないか」と心ない言葉をかけられたこともありました。

 29歳の時にお見合いをしました。「重たいものを持つことや走ることはできない、冬の雪下ろしの主力にはなれない」と、足の状態を正直に話して納得してもらったといいます。晩年には、家族の支えがあって今があると感謝の気持ちを語っています。

 歩行のたびに痛みをこらえる日々を送りましたが、古希を迎えた頃に下腿部を切断して、下腿義足を使用するようになりました。

Episode Ⅱ

日常用義足
H780/3300g
ライナー式
日常用義足
H780/2330g
ライナー式

 この義足の持ち主は、1944(昭和19)年にニューギニア島の戦闘で肩と腕を負傷、その後の戦闘で左足にも重傷を負い、ガス壊疽えそのためジャングルの中で切断手術を受けることになりました。24歳の時でした。
 受傷前にはアメーバ赤痢、受傷後にマラリアなどにもかかりました。医薬品や食料不足のために体力を消耗し、骨と皮になるまでやせ細り、危篤状態に陥ったこともありました。

 1946(昭和21)年に復員しますが、衰弱のため結核にかかり、療養生活を余儀なくされ、一時は生きる気力を失くしてしまったといます。しかし家族の存在や恩師の言葉が心の支えとなり、仕事勤めができるまでに回復しました。

自身の受傷から切断の体験を短歌に詠んでいます。

百雷の一時に落ちし音のして既に脚の砕けしを知らず

弾が足に当たったのは一瞬の出来事でした。



麻酔うちうつろの内に骨をきるノコギリの音聞きつ眠れり

部隊の衛生隊によって運ばれ、ジャングルの中で切断手術を受けることになりました。



手榴弾かかへて自爆せし兵の苦しみ誰か責められるべき

 負傷兵の中には傷の痛みに耐えきれず、自決した人もいました。

 戦闘中に受けた傷だけではなく、作戦中の事故、病気や物資不足、戦局悪化に伴う輸送船への攻撃など、幾度も命を落とす危険を乗り越えてきました。戦地で看病にあたった当番兵や同期の戦友とは、日本へ帰ったら互いの故郷を訪ね合おうという約束を交わしていましたが、みな帰らぬ人となってしまいました。困苦欠乏に耐えながら身を捧げた仲間達のことを忘れず、感謝と追悼の気持ちから自宅の仏壇に毎日手を合わせてきました。

 仕事や家族にも恵まれ、傘寿を過ぎても元気に過ごせるのは、恩師の言葉「人はまごころを持って生きなければならない」を実践してきたこと、義足の精度向上によって歩行が楽になったことだと思うと語っています。

Episode Ⅲ

作業用義足
H820/3020g
断端面との接触がよく、気にいっていた義足。
作業用義足
H850/2475g
アルミ製。田畑に入る時に使用しました。

 この義足の持ち主は、1939(昭和14)年に陸軍へ入営し、1941(昭和16)年9月、中国湖南省での戦闘中に右太ももに銃弾が当たり、切断手術を受けることになりました。病院へ収容されるまでの3日間は、食糧も水もなく、負傷部位はガス壊疽にかかっていました。足は動かすことができるので切断したくないと思いましたが、このままでは命が助からないと軍医から告げられました。弾が当たって脚を切断する大怪我を負ったことに対しては、「運が悪かっただけ」と思ったそうです。

 日本へ還送後、厳しいリハビリを受けた後に除隊(退院)し、企業に勤めました。陸軍病院では切断患者も多く、気の合う仲間と過ごしてきましたが、社会に出ればそうはいかなかったといいます。太ももの付け根から切断したため、義足は腰を支点にして(腰を振るようにして)歩かなければならず、「歩くことが大変だから、健常者と一緒に勤めるのが辛かった。義足をつけて歩いてみたことのない人にはこの気持ちは分からない」といいます。

 終戦を機に企業を退職して、実家の農業を継ぎました。急峻な山に畑があり、農具や収穫した野菜、果実を運ぶことに苦労する毎日でした。この頃から、切断した脚の激痛に悩まされ始めるようになりました。一度痛み出すと七転八倒、「この世の地獄」という程の苦しみで、気を紛らわすためにお酒を飲んで暴れる日々が続きました。効果のある鎮痛剤が手に入ったのは80歳を過ぎた頃でした。

 孤独感と痛みと闘う半生を過ごしましたが、義足の不自由さを家族に見せたことはありませんでした。生活も仕事もできることは何でも自分でしていました。何より子供想いの父親で、子供が小さい時に熱を出した時は、夜中に町の病院まで自転車をこいで運んだそうです。

 戦時中に働き者の奥さんと結婚して子供にも恵まれましたが、自分と同じように出征していった幼なじみの仲間は、誰一人故郷に帰ってきませんでした。「仲間がいないのは寂しい」といつも思っていました。「軍隊へ行くのは当時の義務であったけど、戦争ほど馬鹿らしいものはない―」。

Episode Ⅳ

右脚の義足
H670/2080g
左脚の義足
H825/3030g

 この義足の持ち主は、1944(昭和19)年に陸軍へ入営し、翌45年に中国東北部で石炭輸送の任務中に事故にあい、両足切断の重傷を負いました。気が付いた時には病院に寝ていて、足の感覚は頭に残っていたので、切断の事実をなかなか飲み込むことができませんでした。両足がなくてはこの先何もできないから死んだ方がいいと考えますが、患部が治るにつれて生き抜かなければいけない、障がいを負ってしまったからといって偏屈になってはいけない、と気持ちが変わっていたといいます。

 中国の陸軍病院で終戦を迎えますが、ソ連軍の侵攻によって病院スタッフは動ける患者を連れて先に避難を開始していました。重傷者は取り残されたため、一度はソ連軍に拘束されますが、両足切断の重傷であったため解放されました。日本へ帰るまでの間、取り残されてはいけないと思い、支給されていた仮義足で必死に歩行訓練をしました。

 1947(昭和22)年に故郷へ帰ることができました。故郷の駅に着いた時は、実家の隣に住む男性がリヤカーで迎えに来てくれました。小学校時代の親友は戦死していました。親友の母親が「あなたみたいに脚がなくてもいいから、帰ってきてもらいたかった」とこぼした時は切ない気持ちになったといいます。

 両足がないので生活をどのように築いていくか考えていた時、父親から手に職をつけなければならないと助言され、時計修理の技術を習得することにしました。東京で5年間修業し、故郷へ帰って時計店を開きました。1954(昭和29)に結婚し、翌年に子供にも恵まれました。

 不自由な身体でしたが、義足で銭湯にも通い、人がじろじろ見ても気にしないよう気持ちを強く持つことを心掛けていました。朗らかで世話好きの性格だったため、推薦されて地域の身体障がい者団体の初代支部長を務めました。出歩くことが多くなった時は、奥さんが店を守り支えてくれました。料理が得意で我慢強い性格の奥さんには感謝の気持ちでいっぱいだと語っています。

Episode Ⅴ

日常用義足
H800/3220g
外出時は奥さんが背負って運びました。
鉄脚(農作業用)
H850/3580g
2005(平成17)年まで使用しました。

 この義足の持ち主は、1938(昭和13)年に近衛歩兵連隊へ入営しました。1942年に転属してシンガポールでの斥候任務中、右膝を負傷し、ガス壊疽えそのため太ももから切断することになりました。25歳の時でした。
 脚を切断しなければならないと聞いた時は、「軍医の言うことには従わなければならない、けれど一生不自由な身となってしまう…」と思ったといいます。
 野戦病院、シンガポールの兵站病院、東京第一陸軍病院で何度か手術をし、治療とリハビリの後、義足を支給されました。当時は若くて体力があったため、義足での歩行にもすぐ慣れたといいます。

 帰郷後は実家の農林業を継ぎ、畑仕事は鉄脚でおこないました。田んぼではぬかるんで義足が沈んでしまうため、足先に板(かんじき)を渡して作業がしやすいように工夫しました。

 郷里は冬に雪が2メートル以上積もる山間部にあります。積雪のために学校へ通えない子供たちのために開校される「冬季学校」で、1年生から4年生までを教える臨時教員も務めました。学校は戦後に廃校となり、再び農林業の仕事に戻りました。

 30代の頃に推薦されて町の教育委員となり、外出する機会が増えるようになりました。当時はまだ住んでいる地域に除雪車の巡回がなく、雪の積もる峠道を歩く際は奥さんが先頭に立って道を平たくならして歩き、義足が雪にとられないようにしていたといいます。奥さんは、教育委員の仕事の際に使用する日常用の義足を背負って雪道を歩いていました。

 その後、傷痍軍人会や社会福祉協議会の仕事も引き受けるようになりました。教育委員会や社会福祉の仕事経験からか平和を尊ぶ気持ちが強まり、山の神様が祀られている神社へ平和祈念の碑を立て、小学校から戦争体験の話を請われた時は子供たちに切断部分を見せて戦争がもたらす恐ろしさを語ったといいます。

 「隻脚の再起更生」を座右の銘とし、できることは何でもするという生涯を送りました。

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