恩賜品

 手足を失った兵士には、陸海軍病院で義手や義足が支給されました。これらの義肢は皇后からの恩賜品でした。
 恩賜品の歴史は、西南戦争の負傷兵に天皇からオランダ製義肢が下賜されたのが始まりです。
 日清戦争の際、恩賜の義肢を日本製とすることが定められ、皇后から下賜されるという流れが確立しました。日清戦争、日露戦争では捕虜となった外国人兵にも皇后から義肢が下賜されました。

恩賜の義足、義足を納めた箱、沙汰書 寄贈資料より

 時を経るに従い機能も改善されるようにはなりましが、恩賜品は、失った手足を補うべく、機能よりも外見が重視されていました。外見が優れたものを装飾用義肢と呼びます。

恩賜品の製作者

 日露戦争の際には軍によって恩賜の義肢を製作する業者が選定されました。東京本郷の萬木九兵衛(医療器械店/萬木九兵衛まききゅうべえ商店)と日本橋の松本福松(松本械器店)です。両店は、日清戦争の際にも戦傷者に下賜された恩賜の義肢製作の実績がありました。萬木九兵衛は、大隈重信の義足を製作したことでも知られています。
 松本械器店では、外国製の義肢をカタログから学び、当時先進的な技術を持っていたアメリカのA.A.マークス社の製法も取り入れて製造を行っていました。外国製は高価で庶民の手には届かない価格でしたが、自社製は三分の一程の価格で販売していました。また日本製の義足は、草履が履けるよう作られているのが基本で、追加料金で正座も出来る仕様にすることが可能でした。

大隈重信のアメリカ製義足

大隈重信
(『近世名士写真 其2』近世名士写真頒布会より)

 第一次伊藤博文内閣で外務大臣を務めた大隈重信(1838~1922)は、外相就任翌年の1889(明治22)年、条約改正交渉に反対していた来島恒喜くるしまつねきに爆弾を投げられて重傷を負い、右脚を切断することになりました。
 傷が回復して、天皇皇后へ拝謁するために宮中へ参内することにした時は、義足での参内を気遣う声がありました。歩行時に膝が曲がらない大腿義足での階段の昇り降りは、とても大変であり転倒の危険もありました。

「御承知之通宮中は段階之昇降場所多く義脚御熟練不相成中は頗る危難と存候。それとも是非不日に御参内相成義に候哉、大凡日頃と云ふこと御内示被下度候。」
 (明治23年5月8日 鍋島直彬書翰)
意訳:宮中は階段や段差が多く、義足での歩行に慣れない内はとても危ないと思います。

 大隈は、当時先進的な技術を持っていたA・A・マークス社製の義足を愛用していました。日本製の義足も所持していましたが、「日本の義足製作者は不親切、不熱心で徳義心に欠ける」と酷評しています。

A.A.マークス
(鈴木祐一『義手足纂論』(1902年)より)

 義足となった後は、生活様式を西洋化して椅子で過ごすようになりました。
 義足使用者にとって正座をする、あぐらをかくという従来の生活スタイルは不便であり、トイレなども膝の屈伸が必要なために一苦労だったといいます。大隈のように椅子の生活に切り替えることが理想と分かっていても、経済的に余裕がなく住居のリフォームができなかった人にとっては、日常生活に相当の負担がかかったことが想像できます。

 政治家として知られる大隈ですが、福祉事業にも力を注ぎ、日清・日露戦争の傷痍軍人、遺族等の援護活動に携わり、1909(明治42)年には帝国軍人後援会の会長に就任しています。

会期中は、早稲田大学大学史資料センター所蔵の大隈重信が使用していたアメリカ製と考えられる義足の実物と、A.A.マークス社製の義足(佐賀市大隈重信記念館所蔵)をパネル展示します。

陸海軍病院、軍事保護院

 戦中、陸軍では、臨時東京第一陸軍病院、臨時東京第三陸軍病院で、切断患者の治療とリハビリ、義肢の支給を行っていました。

 義足は、民間事業者に委託して製作していましたが、陸海軍病院でも義肢の研究や製作をおこなっていました。
 臨時東京第一陸軍病院では、『義肢に血が通うまで』の著者である保利清(軍医)が長年義肢製作に携わっていた経験を活かしてリハビリから訓練までを担っていました。竹の義足や鉄の義足を用いての歩行訓練は軍隊式で大変厳しかったものの、社会復帰のために必要なものとして定評があり、傷兵たちが「〽東一十七外の鉄脚部隊」と歌って行進訓練に励んでいました。

「十七外数へ歌」「義足と兵隊」
臨時東京第一陸軍病院の第17外科には、切断患者が入院していました。
寄贈資料より
「聖地巡礼記念」写真帳(昭和17年)より
臨時東京第一陸軍病院では、社会復帰のための郊外遠征も行っていました。
義足を付けて外出する傷兵が大勢写っています。

 このほか、臨時東京第三陸軍病院、海軍病院、陸軍軍医学校や海軍軍医学校でも、切断手術や義肢の研究が進められていました。作業用義足と呼ばれる、働くために必要な機能を備えた義足の開発も行われていました。

 退院(除隊)後に、原職復帰や再就職がかなわなかった傷痍軍人は、傷兵保護院(のちの軍事保護院)所管の傷痍軍人福岡職業補導所、傷痍軍人大阪職業補導所、啓成社(東京)等で職業訓練を受けることができました。これらの施設では、義肢の研究、製作、メンテナンス、修理もおこなっていました。

 傷痍軍人福岡職業補導所では、義足使用者の生活、職業の実態に合う「福岡型大腿義足」や「福岡型農業用特殊足型」などを開発しています。軍事保護院では、作業用義肢を支給する制度を整えて傷痍軍人の社会復帰(再起奉公)を促していました。

 戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)の方針によって軍事保護院は廃止され、厚生省外局として保護院、医療局を新たに設置して施設の一般開放が行われました。臨時東京第一陸軍病院は「国立東京第一病院」、臨時東京第三陸軍病院は「国立相模原病院」と改称され、今日の「国立研究開発法人国立国際医療研究センター病院」、「独立行政法人国立病院機構相模原病院」に至っています。

啓成会の歩み

 義肢と共に仕事をした人々のことを振り返る上で、啓成会の存在は欠かせません。
 啓成会は、1924(大正13)年に関東大震災の罹災者の救済を目的に、同潤啓成社として設立されました。翌25年に東京廃兵院の構内に社屋が完成し、同年7月から、震災で障がいを負った人に洋裁、家具製作などの職業講習を実施するとともに、義肢の研究・製作事業を開始しました。また、震災で家屋を失った人のための住宅供給事業なども展開していました。職業教育や就職先の斡旋のために他機関との連携も強く、会長には内務大臣、総務部長には廃兵院院長、義肢部長には医学博士が就任するなど、運営体制も充実していました。

東京廃兵院(事務所)
啓成社は廃兵院の構内に社屋がありました。
寄贈資料より

 授産事業部門は、1928(昭和3)年に財団法人啓成社として独立し、震災の被災者だけでなく、鉄道や炭鉱などの産業罹災者、日清・日露戦争の戦傷者、交通事故などの一般負傷者も受け入れの対象となりました。1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、戦傷者の数も増加したため、傷痍軍人の職業再教育機関として事業を拡充させていきました。
 その中でも義肢や補装具の製作・研究開発は「優良なる義肢を研究し且つ之を安価に入手し得べからしむる様にする事は甚だ緊要適切の事業」と位置づけていました。恩賜の義肢製作や、特許5件、実用新案登録2件、特許出願2件の実績を有していたほか(1934年時点)、既存の義肢で適応しない事例がある場合は、研究目的として製作し、当人へは無償提供するなど、幅広い事例に対応していました。

 戦後は、一般の戦災者や生活困窮者を受入れ、職業訓練・義肢製作事業も継続されました。1948(昭和23)年に財団法人啓成会と改称し、現在に至ります。

 会期中は、(一財)啓成会所蔵の啓成社でリハビリに励む人々の写真(実物)を展示し、啓成社製の義足、義肢製作の様子の写真をパネル展示します。

戦傷病者の義足さまざま

戦傷病者自作の義足

 自ら義足の開発を行った戦傷病者もいました。
 支給された義足では足首が回らず、膝も思うように曲がらないという使いづらさを感じていました。また義足ではない足には負担がかかりすぎて痛みを伴っていました。そこで1973(昭和48)年頃から三年をかけて義足を設計し「人足機」と名付けました。足首や膝の動きが柔軟で、自然な歩行ができることが特徴でした。

 人足機の実用化を目指して厚生省(当時)の認可を取得するという目標を立て、まずは人足機の精度や耐久性を証明するために、鹿児島から東京までの2,000キロを歩き、道中の社会福祉事務所、駅、警察署などで署名をもらい『歩行帳』としてまとめました。

 残念ながら人足機の実物は残されていませんが、資料からは本人の熱意と多くの人から応援の気の熱意と多くの人から応援の気持ちが伝わってきます。

人足機
(寄贈資料より)

会期中は、航空自衛隊入間基地修武台記念館所蔵の加藤隼戦闘隊で知られる陸軍パイロットの義足をパネルで展示します。

民間企業の躍進

川村義肢株式会社・土井義肢矯正器専門技術所

 ここでは民間企業の取り組みの一例を紹介します。
 川村義肢は、1946(昭和21)年12月に川村義肢製作所として創立されました。創業者の川村一人氏は、1910(明治43)に創業した土井義肢矯正器専門技術所で学んだ技術者でした。土井義肢ではドイツの義肢・装具の製作技術を導入し、日本人の使用に適うよう改良を重ねて技術の向上に努めていました。

 特許得を取得した土井式義足と呼ばれる大腿義足は、足首が曲がるよう設計されていて正座ができるのが特徴です。
 正座は、特に日本式家屋で生活する場合に必要な座り方です。大隈重信が取り入れたような西洋式の生活が広く普及していない時代には、義足使用者にも日常生活で正座をすることが求められていました。結婚式などの慶事、葬式などの法事でも正座をすることが一般的だったからです。義足使用者の文化的ハンデを補うために正座ができる義足は、大きな意味を持っていたに違いありません。

 現在、川村義肢は大都市圏を中心に営業所や専門店を構える一大メーカーとなりました。義肢製作の職人が最新の技術を私たちに提供しているだけでなく、介護福祉士や社会福祉士、介護支援相談員など多くの専門家が在籍して、多面的なサービスとサポートを提供しています。

会期中は、川村義肢㈱所蔵の土井式義足や竹製の義足を写真パネルで展示します。

スポーツ用義足

 義足の戦傷病者がリハビリに励み、仕事に就き、家庭を築いて子育てをしていた当時、階段の上り下りにも多くの労力が必要で、義足には「走る」「跳ぶ」という機能はありませんでした。
 しかし、技術の進歩によって1980年頃から義足は、単に立ったり歩いたりするだけでなく、走ったり、運動競技に参加することも視野に入れて作られるようになりました。川村義肢でもスポーツ用義足を開発、製造しています。
 2021年の東京パラリンピックでも、義足使用者の活躍が期待されます。

会期中は、川村義肢㈱製の日常用義足(断面)やスポーツ用義足を実物展示します。

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