当たり前のように動かすことのできた手を戦争で失い、喪失感と向き合いながら、義手を自分の手として使いこなすには、血の滲むような努力が必要でした。また、義手そのものからは見えない、辛さや悲しみもありました。ここでは、戦傷病者の気持ちを体験記から引用して紹介します。
不自由を克服する、義手を使うまで
昭和二十六年に結婚しましたが、その時妻に日常生活のことは全て自分でするから決して手を出さないようにと言い渡しました。妻に手助けしてもらうことで自分に甘えが出て何も自分でしなくなることを恐れたからです。
社会復帰への道は、左手だけでスコップの使い方、稲を束ねる技術等の訓練を受ける、何を教わっても思う様に出来ず幾度人知れず涙を流したことか。
或る日風呂に入ると、私より少し腕の短い人が、悪い短い腕に手拭の片方の端を縛りつけて背中を洗っていた。ああこれだ、究すれば通ずるという諺がある。不自由だ不自由だと考えているだけではだめだ、不自由だと百回唱えても不自由は消えない。積極的に克服することだという事を悟る事ができた。 不自由になってみて、親からもらった五体満足の有難味が判った。
義手からは見えない労苦
結婚し家庭を持とうと思い、或る人に頼んで好きな娘さんに結婚話をもちかけてもらった時、親が私の大事な娘を手のない人にはやれない。いくら戦争で国の為に手をなくしたと言えども、それはそれ、世間の手前かつこうも悪いし娘も苦労する。それはご免と断られた。これは私一人だけでなく戦争で手や足をとられた人は皆んなそうであったと思います。
左腕切断部の後遺症はどうしようもなく、血液循環が悪いため患部は夏でもひんやしり冷たい、冬季はカイロなど入れて温めたりしている。
小学校三年の我が子がベソをかきながら帰ってきた。「お前のお父ッアン片腕がない、方端だ、おかしいな」とかまわれていたのである。子供まで片身の狭い思いをさせている。悔しい、情けない。
一番ショックを受けたのは、息子が少年のころ友達は父親とキャッチボールをしているが、僕にはそれがしてもらえず淋しい思いをした、と言われたことである。今でも心にその言葉が残り、幼い息子に淋しい思いをさせ済まなかったと、遣るせない気持ちに襲われる。
体が疲れた時、季節の変り目、寒暖の激しい時には切断面に疼痛があり苦しみました。受傷後六十年たった今日なお痛みがあり、冷やしたり温めたり、夜通し患部をさすることもありました。(妻の体験より)