EpisodeⅠ

元従軍看護婦の証言

 空襲の時には、(傷病兵が)とにかくしっかり白衣なんかを握っていて、やっぱり行って欲しくないって気持ちがあったんだと思うんですよ。その時に私は(傷病兵に)覆いかぶさってましたよ。自分自身も怖いんですけど、「大丈夫よ」「敵機が行くまでね」ってね。

 この証言者は、宮城の日本赤十字社看護養成所を卒業後、召集されます。東京、台湾の陸軍病院に勤めた後、1943(昭和18)年から激戦地のフィリピン、ニューブリテン島、パラオへ派遣されました。南方では、ジャングルの中の病院棟で、腸チフスやアメーバ赤痢などで苦しむ患者の看護にあたりましたが、40人の患者を看護婦2人で看たり、空襲に遭ったりと過酷な戦況での救護活動となりました。
 1944(昭和19)年6月に日本国内の病院に転属し、翌年に結婚。しかし、夫が結核を患ったため、看病をしながら再び看護婦として働き始めることとなります。結婚から5年後に夫は亡くなりますが、その後も看護の道一筋で生きてきました。

EpisodeⅡ

元従軍看護婦の証言

 はじめのうちは、生々しいけがの方が毎晩運んでこられました。だから、睡眠時間がどうのこうのなんてその当時は言っていられなかったのです。

 この証言者は、東京の日本赤十字社看護養成所を卒業後、臨時第21救護班の一員として中国の兵站病院に派遣され、傷病兵の看護にあたりました。2年ほどして一度帰国し、国内の病院に勤務していましたが、再召集を受け第315救護班の配属となり、フィリピン・マニラに派遣されます。戦況の悪化に伴い、1944(昭和19)年以降はフィリピン北部への移動を続け、兵士たちとも別れ、救護班の仲間とともに険しい山の中を食料もなく逃げていた途中で終戦を知ります。その時には、マニラに来た頃より22㎏も痩せ、体重は38㎏となっていました。
 戦後は、厚生省の予防課、民間企業の保健室、国立東京第一病院(現:国立国際医療研究センター病院)、日本赤十字社中央病院(現:日本赤十字社医療センター)などで働き、看護一筋の道を送ってきました。

EpisodeⅢ

元従軍看護婦の証言

(焼夷弾で)早く切断しなければえらいことになるということで、切断するのこぎりがあるんですけれでも、それを他の看護婦とともに行いました。切断した手や脚は手術場の隅のほうへ積んでました。

 この証言者は、中国で兄が戦死したため、今度は自分がお国のためにと、看護婦になることを志し、大阪にあった看護婦教育所に入所します。教育所で看護婦免状を取得し、卒業後、陸軍看護婦として大阪の陸軍病院に勤めました。陸軍病院では、外科病棟での手術場勤務や傷病兵の受け入れ、転院業務に携わりました。1945(昭和20)年3月13日大阪大空襲を経験し、その後も続いた空襲の罹災者りさいしゃ救護にあたりました。
 戦後は、戦傷病者の夫と結婚し、2人で農業を始めました。しかし、夫は戦争で左手を受傷したために、両手を使う農作業が上手くいきませんでした。そんな夫の苦しい思いを理解し、慣れない農作業を手伝うなど、夫を支え続けてきました。

展示資料:看護衣
陸軍星章が襟についている陸軍看護婦の看護衣。
本来はスカート状のものであったが、証言者は縫ってズボン状にし、動きやすいように工夫していた。

EpisodeⅣ

元従軍看護婦の証言

 (救護班が撤退する)その途中に患者さんがね、木の根っこに寄りかかったまま、「看護婦さーん、看護婦さーん」と言う人が沢山いたんです。だけど、どうしようもないんです。

 この証言者は、日本赤十字社の救護看護婦として大阪の病院に勤務していましたが、召集がかかり、石川県の第488救護班の一員として激戦地ビルマに派遣されました。現地では、兵站病院の外科病棟に勤務となり、軍医や衛生兵とともに前線から運ばれてくる傷病兵の看護にあたりましたが、戦局の悪化に伴い、転進(撤退)命令を受け、救護班だけでタイまで撤退することになりました。それは、ジャングルの中を400㎞も歩き通すという過酷なもので、仲間と励まし合いながら何とか進みました。
 1946(昭和21)年に無事に帰国し、中国で足を負傷した戦傷病者である夫と結婚します。傷病の夫を支え、ともに労苦を乗り越えてきました。

展示資料:色紙(短歌)
ビルマでの転進の時を振り返って詠んだ歌。
「清泉」は証言者の雅号。
「サルウィン河 よどむ流れに 赤十字 
     れてあざやか 渡河とかしゆきたり」

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