EpisodeⅠ

戦傷病者の妻の証言

 これが私の運命ですし、自分の方が世話を掛けるかもしれないけど、やっぱり(夫を)見届けなくちゃっていう気はありますね。

 この証言者は、1942(昭和17)年に結婚しました。夫は、1939(昭和14)年に負傷し、ほとんど視力を失いましたが、治療の末に左眼の視力がやや回復します。しかし、夫の視力はいつ低下してもおかしくなかったため、生計を支えられるように結婚当初から洋裁を学び続けていました。
 終戦後、夫は市役所に勤めていましたが、身体から受傷した際の残留破片が出てくるようになります。失明するかもしれないという不安な日々の中、証言者は再び夜間の洋裁学校に通い、師範の資格を取得し、生計を支えてきました。

展示資料:卒業証書
文化洋裁女学院の卒業証書。夫の変わりに生計を立てるため、証言者は夜間学校に通い続け、師範の資格を得ることができた。

EpisodeⅡ

戦傷病者の妻の証言

 (夫を)尊敬しておりました。その精神に。出来ないことだなぁと、よく努力してこられたと思います。

 この証言者は、1943(昭和18)年に結婚しました。夫は、1941(昭和16)年に戦闘で顔面と左肩を負傷し、右眼は失明、左眼はかろうじて見える程度の状態でした。
 結婚後、夫の左眼の調子が悪くなり、3年もの入院生活の後に両眼失明となってしまいました。証言者は将来の不安や、慣れない農作業に思い悩む日々を過ごします。
 苦しい生活を打破するため、夫は栃木県の盲学校に入所し、鍼灸マッサージの国家資格を取得するため勉強に励みました。1950(昭和25)年には自宅で治療院を開き、鍼灸師の仕事を始めます。時には出張して治療を行うことがあり、その際には証言者が夫を自転車の後ろに乗せて通うなど、お互いに支え合いながら歩んできました。

妻へ
12月11日 夫拝
 寒さいよいよ厳しき塩原より最後の便りをいたします。もう試験も済み16期生の卒業送別会などの準備にて頭を痛めています。
 これも会長として最高の責任を持つ者で頭が痛みます。
 今日も宇都宮にて魚15貫を買い入れて来ました。皆さん元気ですか。娘や息子もあと幾日も待たずして会われます。16日の朝、塩原を発てば17日の朝着きますが、愛盲協会設立の件もあり幾らか遅れるかとも思われます。出来得れば17日に帰りたいと思っています。あてにしないでね。
 しかし、早く帰るよ。そう怒らなくとも世の中に一番愛するお前の元へ。僕は本当に健康そのものです。ご安心ください。麦まきもまだあるでしょうね。それでも仕事もおいおい終わりて大変楽になったことと思います。
 では、もうすぐ会える日を楽しみに。

展示資料:夫から妻への手紙
夫が盲学校へ入所し、鍼灸マッサージの資格取得に励む中、妻へ送った手紙。手紙は点字で描かれているため、妻も点字の勉強を始め、夫の便りを待っていた。

EpisodeⅢ

戦傷病者の妻の証言

(夫が)お国のために働いた身体だから、私が辛抱して、どんなことを言われても堪えていこうと思った。他の人がどう言おうと、この人を守っていかなきゃいけないという一念で頑張るよりほか仕方がなかった。

 この証言者は、1941(昭和16)年に結婚しました。夫は、その6日後に召集されフィリピンへ出征。戦闘中に両眼を負傷し、両眼失明となりました。
 終戦後、二人の子どもに恵まれましたが、証言者は子育てと実家の農作業の重労働によって倒れ、農業が続けられなくなったことで夫と子どもを連れて実家を離れました。1952(昭和27)年に傷病恩給が支給されますが、夫は家にお金を入れず、賭け事に使ってしまいます。その間、証言者は内職などをして生活費に充てていました。一時は夫婦とも互いに死を意識するほど追い詰められていましたが、子どものために思いとどまりました。
 夫は晩年になると賭け事を止めて家族と過ごすようになりますが、肺気腫を患い1983(昭和58)年に亡くなります。夫との結婚生活について、言葉ではとても例えられないほどのものであったと語ります。

展示資料:障害年金証書
夫は、目が見えないという絶望感や、戦争の悪夢にうなされ続けており、憂さ晴らしをするように全額を賭け事に使っていた。そんな中、妻は内職などをして家計を支えていた。

EpisodeⅣ

戦傷病者の妻の証言

私が外で働いていました。(夫は家にいたが)マメなんですね。家事のこともしてくれたし、朝一番に起きてお茶を沸かしたり、自分の洗濯は自分でしていました。

 この証言者は、1965(昭和40)年に結婚しました。夫は、1945(昭和20)年に空襲によって左腕を負傷し、切断手術を受けました。
 結婚当初、夫は交通事故が原因で腰痛を患い、仕事を辞めざるを得ませんでした。そのため、家事や畑仕事など身の回りのことをすべて夫が行い、証言者が外で働いて家計を支えていました。
 2006(平成18)年夫は亡くなりました。結婚生活を振り返り、生活の不安や苦労は何もなく本当にいい人だったと語ります。

展示資料:誓詞
結婚式の誓いの詞をまとめたもの。お互いに助け合い、深い理解を持って健康で明るい家庭を築くことを誓っている。

EpisodeⅤ

戦傷病者の妻の証言

(夫に対して)口を滑らして身体が不自由であることを言ってしまうと、機嫌が悪くなるんですよ。人の心を読むことがいかに大変かよく分かりました。

 この証言者は、1947(昭和22)年に同じ職場の同僚であった戦傷病者と結婚しました。夫は、1944(昭和19)年に空襲によって左腕を負傷し、切断手術を受けました。
 証言者は長女を出産と同時に退職。子育てだけでなく、夫の父の面倒を見ながら実家の棚田を耕してきました。
 結婚生活では、夫と同じ目線に立ち、気を配って言葉を選びながら生活することが本当に大変だったと話します。一方の夫も、妻の献身的な支えがあったからこそ今があると感謝の気持ちを語っています。

……ある時、職員会議の後に飲み会があった。お酒が入り青年教師は、戦場での負傷を語り始めた。そのとき、私は心の中に、決心を固めた。私の命は十九歳で終わり!これから別の人生が始まる。国のために左腕を捧げた人の左腕になろうと。
 果たして父親が同意してくれるだろうか?いつかは切り出さねばならない。これこれしかじかで意中の青年がいるから。と話した。父はびっくりした。私は一生懸命に「望み通り結婚させて欲しい」とひたすら頼んだ。父は夕食を食べないで家を外にした。父の帰りを待ったが帰って来ない。
 一か月過ぎて帰宅した。久し振りの父との話は、考えてくれの繰り返しだった。
 「どうしても、お前の思い通りにしたいなら、親子の縁を切るが、どうするか?」
 「許して貰えないのなら仕方がありません。縁を切られても家を出ます。立派な式をして貰わなくてもいいから娘は死んだと思ってください」
 涙を見せたこともない父は、声を上げて泣いていた。その夜から一週間経って「お前の好きなように……」と、許してくれた。父には申し訳なかったが、私にはこの人しかいないのだ!
 許された途端に涙が溢れて止まらなかった。……

展示資料:『戦傷病克服体験記録』(2000年)
証言者が結婚を決意した時の様子や、結婚を反対していた父を説得した時の心情が記されている。

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