新潟県にお住まいの髙橋トミ子様より、ご主人の庄司様(故人)の資料をご寄贈いただきました。
以下、奥様からのお話とご寄贈いただいた資料から庄司さんをご紹介いたします。
庄司さんは建具職人の家に生まれ、18歳で職人の道に入りました。昭和13年に現役兵として歩兵第16連隊留守隊に入営(「軍隊手牒」)し、満洲に派遣され牡丹江省付近の警備を行い、ノモンハン事件にも派遣され、昭和14年には歩兵16連隊として満州事変にも派遣されました。昭和19年江南作戦に参加、8月22日に江西省蒲郷東方10メートル附近にて「右下肢及右上肢迫撃砲弾破片創」を受けて野戦病院に収容。9月16日博多へ上陸後、新発田陸軍病院など転院を繰り返しました。昭和20年3月31日に軍人傷痍記章を授与(「軍人傷痍記章臨時授与証書」)。5月29日には臨時東京第三陸軍病院、6月23日に同院岩船分院へと転院されました。この時、負傷した右脚には補助具(「右脚用補助具一式」)を付け、治療を受けながらも「身体ノ不自由ヲ克服シ炎天下困難ナル自活作業」や「勤労奉仕」に従事したことが「衆ノ模範」として表彰(「賞状」)されました。
陸軍病院が戦傷病者を表彰した賞状は大変貴重な資料です。6月30日には現役免除となり、8月14日に帰宅。まさに終戦の前日でした。
昭和21年に結婚した時は、ごく普通の人として接していました。実際は、少し短くなった右足は、つま先が上がりにくいため、突っかかりやすく、何度も転びそうになったそうです。昭和22年、「傷痍軍人傷病賜金」(「裁定通知書」)が支給の通知が出され、28年には新潟県傷痍軍人会の会員(「証明書」)となりました。
戦後再び職人の道に進み、加茂桐タンス職人として努力し、ついに国の伝統工芸品指定の「加茂桐タンス」の第一人者として昭和61年、新潟県から卓越した技能者として表彰されました。
ご本人が他界されて詳細が分からない場合でも、こうした資料によりその経緯が分かる場合があります。戦傷病者にまつわる資料の収集にご協力お願い申しあげます。