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満20歳を迎えた男性は、徴兵検査を受けて兵士となる。
当時はそれが国民の名誉ある義務であり、誇りでした。

02-01.徴兵ー国民皆兵の時代ー

国民皆兵の理念のもと、徴兵検査「甲種合格」が若者の模範とされました。

近代国家の出発と軍隊

 1873(明治6)年、明治政府は徴兵令を制定し、江戸時代の武士による軍隊に代えて、国民から召集した人々による軍隊をつくることを目指しました。この徴兵令によって男子に兵役が義務付けられ、「国民皆兵」制度が確立していきました。
徴兵令は1927(昭和2)年に全文改正されて兵役法となりました。

《表彰状》
1942(昭和17)年1 月7日

02-02.入営ー軍隊生活のはじまりー

家族や地域の人々に見送られて軍隊へ。
兵士としての訓練、軍の規律に沿った生活、古参兵からのビンタ。
兵営では厳しく辛い生活が待っていました。

入営

 兵役につき軍隊生活に入ることを陸軍では「入営」、海軍では「入団」といいました。兵士が集団生活する場所を兵営といい、兵舎で兵士としての心構えや規律、兵器の取り扱いなどの教育が行われました。
 兵営外の練兵場や演習場では、行軍演習や射撃訓練などのさまざまな訓練が行われました。行動が遅れたり、成績が悪かったりすると、上官から厳しく叱責され、体罰が与えられることもありました。
 戦争が本格化する前には、入営が決まると、無事に兵役を務められるようにお守りや餞別などを送り、幟旗を立てて盛大に祝うことが地域でよく行われていました。

《現役兵として入営出発の時の記念写真》
1940(昭和15)年12月1日

02-03.出征ー覚悟とともに戦地へー

戦争がはじまると、兵士たちは訓練を受けた兵営を離れ戦地に向け出発します。
誇りと不安、決意と覚悟。
そこにはさまざまな思いがありました。

出征

 兵士が戦地へ赴くことを「出征」といいます。出征は家族や地域の誇りとされ、入営時と同様に祝幟が立てられ婦人会等による壮行行事が行われることもありました。その際、出征兵士の無事を祈るお守りや弾除けの願いを込めた千人針が贈られました。「生きては帰れない」と覚悟を決めて遺言や遺髪を用意した兵士もいました。
 戦争がはじまり現役兵が不足すると、臨時召集令状いわゆる赤紙によって召集された予備役兵や補充兵を加えて必要な兵員を確保するようになり、その数は戦争の拡大とともに大きく増えていきました。

《千人針》
1940(昭和15)年
千葉芳三郎氏に贈られた千人針の腹巻。両側の虎は「千里を行って千里帰る」という故事由来から、中央にあしらわれている「(サムハラ)」は古くからの怪我除け信仰にもとづくもので、出征兵士の無事生還を願っている。

02-04.戦地での生活ー故郷を想いながらー

本土から遠く離れた海外の戦地。
行軍と宿営を繰り返す毎日。
そこには異国の地で家族を想い、生活する兵士たちの日常がありました。

拡大する戦地

 日中戦争の本格化、太平洋地域への進出により、出征した兵士たちの戦地は中国大陸、東南アジア、太平洋へと大きく広がりました。極寒の中国東北部から熱帯の密林に覆われた太平洋の島々まで、兵士たちはさまざまな気候と環境の中で生活することになりました。

兵士たちの生活

 戦地の日常は「行軍」と「宿営」の繰り返しでした。行軍は徒歩で一日に24 キロ前進することが基準とされ、1時間ごとに10 分の小休止、昼食時に1時間の大休止を取り、夕方前に次の宿営地に到着しました。夜間や速度をあげての行軍もありました。暑い地域では熱中症や食中毒、寒冷地では凍傷や凍死の危険がありました。

《飯盒》
1943(昭和18)年~終戦頃使用
「飯盒を使うにも水に不自由し田んぼの水をすくって炊いたりした。赤くなってじゃりじゃりだったが腹が減っていたので食べた。(本人証言)」
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