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兵士たちを襲う銃弾や砲弾、爆弾。
風土病や食料不足による飢え。
戦場の過酷な状況と環境の中で、兵士たちは傷つき、倒れていきました。

03-01.受傷ー戦場の厳しい状況の中でー

極度の緊張と恐怖、疲労、敵の攻撃による負傷。
結核、マラリアなどの感染症がまん延する劣悪な環境。
戦場での戦いは兵士たちの身体と精神にさまざまな影響を与えました。
戦況の悪化に伴い陸上、海上の別なく受傷病者が増え続けました。

さまざまな受傷病の原因

 戦場での受傷病の原因には「戦傷」と「戦病」があります。戦傷は銃弾、砲弾、投下された爆弾などによるものがありました。戦病にはマラリアや結核などの感染症、戦場の恐怖が引き起こした精神病などがありました。これらに加えて、食料不足による飢えと栄養失調が兵士たちを苦しめました。

《摘出弾》
1942(昭和17)年2月11日 受傷
要塞砲が雨のように降り注ぎ、至近距離で爆発した。ハンマーで殴られたような衝撃を受けた。3 発あたったうち、1発が貫通銃創、1発が盲管銃創、1発が擦過傷だった。

03-02.受傷の瞬間

穴の開いた帽子。レンズの割れたメガネ、・・・。
銃弾や砲弾片を受けて傷付いた装備品が、兵士の受傷した正にその瞬間を雄弁に語ります。

《受傷時のメガネ》
1945(昭和20)年3月21日 受傷
ビルマの戦闘で左眼を受傷した時にかけていたメガネ。

03-03.救護・収容ー戦場での応急医療ー

戦場で負傷し、戦友や衛生兵に助けられながら、包帯所へ。
包帯所では応急処置が行われましたが、激戦地では十分な処置ができないことが多くありました。

救護・収容

 戦場の傷病兵に対する医療の任務は、迅速に救助、後送して治療し、元の部隊に復帰させることでした。戦場での受傷者は衛生兵により繃帯所に収容され、軍医の応急処置を受けた後、重傷者は野戦病院に搬送され治療を受けました。海軍では艦船内の治療所で応急処置を受けました。しかし、激戦地では救護がままならないことが多くありました。

《三角巾(包帯包)》
消毒ガーゼと三角巾が包まれている。個人携帯用で、兵士は1人1個ポケットに収めることが義務付けられていた。

03-04.野戦病院ー施設も資材も薬品もない中でー

あふれる傷病兵、なすすべのない軍医。
放置され死んでいく重症の兵士たち。
戦争末期には病院という名ばかりのところでした。

野戦病院

 野戦病院は戦場での主要な治療機関で、師団ごとに1~4個設置され、直接戦場からくる戦傷病者も収容しました。野戦病院には約500名の患者を収容できる要員と材料があり、それぞれの部隊と行動をともにしました。

兵士たちの生活

 戦地の日常は「行軍」と「宿営」の繰り返しでした。行軍は徒歩で一日に24 キロ前進することが基準とされ、1時間ごとに10 分の小休止、昼食時に1時間の大休止を取り、夕方前に次の宿営地に到着しました。夜間や速度をあげての行軍もありました。暑い地域では熱中症や食中毒、寒冷地では凍傷や凍死の危険がありました。

《野戦病院ジオラマ》
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