海軍へ入り整備兵に
この方は1940(昭和15)年に徴兵検査をうけ、海軍に入団しました。佐世保海兵団で教育をうけた後、航空母艦「加賀」に配属されることになりました。停泊していた真黒の鉄の塊が「加賀」だと知ったときはとても驚いたそうです。整備兵として担当したのは九七式艦上攻撃機でした。ある日、艦は出港することになりましたが、兵士たちに行先は告げられません。千島列島の島に向かっていった時には、だんだんと外が寒くなっていったので、北へ向かっていることだけが分かりました。その後、「加賀」は真珠湾攻撃に参加しました。
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ミッドウェー海戦へ
真珠湾攻撃後も、どこへ行くのか知らないまま、パラオ、トラックなどへ出る任務がありました。内地へ寄港し、艦の修繕を行う時は休暇が与えられました。航海の話を土産話として実家へ一時帰宅するのが楽しみでした。 1942(昭和17)年、「加賀」は再び出港、洋上でミッドウェーを爆撃すると聞かされました。そして、甲板の上で、攻撃機の出撃準備をおこなっていたさなか、攻撃を受けました。爆弾が引火、次々に誘爆を起こして甲板は火の海となりました。出撃準備をしていた攻撃機は燃えるのではなく「溶けていく」ほどだったといいます。整備兵だったので、ガソリンのしみ込んだつなぎの服(煙管服)を着て、腰に防毒マスクを巻いており、服を脱ぐことができず、全身に大やけどを負ってしまいました。側にいた他の整備兵も大やけどを負い、唸りながら死んでいったそうです。
氷川丸から呉海軍病院へ
甲板での火災が下火になってから、救助の艦に収容されましたが、艦内は負傷兵を満載しており、あちこちから苦悶の唸り声が聞こえ、とても手当をしてもらえる状況ではありませんでした。自分の手の届くところに機械油があったので、それを身体に塗ってしのいだそうです。その後病院船「氷川丸」に収容されましたが、火傷で皮膚と服はくっついていて、服を破って傷を見たときにはじめてその重篤さに驚いたそうです。この時には足が焼けただれていたために歩くことができなくなっていました。呉海軍病院では個室に入れられるほどの重傷患者で、何度か輸血と皮膚移植を受け、一命を取り留めることができました。
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便箋3冊分に及ぶ記述は、全て手書きで丁寧に記されている。