徴兵延期を経て海軍へ
この方は勉学に励む学生だったので、2年間は徴兵を延期していましたが、22歳で海軍に入団しました。海軍なら戦死するときは一瞬で済むと思い、海軍に決めたそうです。基礎教育と、水兵科の訓練を受けた後、1944(昭和19)年12月に小笠原諸島の父島に特別根拠地隊(いわゆる陸戦隊)として配属されることになりました。父島は各島々への中継地点としても利用されていた拠点で、陸上対空班として、砲台を任されることになりました。
ある時、硫黄島へ派遣される部隊の艦が父島へ寄港したことがありました。「硫黄島行きは本当に可哀想でした。皆悲壮な顔をしていました」。その時の仲間たちの顔はいつまでも忘れられないといいます。
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父島で受傷、野戦病院へ
1945(昭和20)年に入ると父島への空襲は激しくなり、毎朝9時から米軍機が飛来、その都度、高角砲で応戦していましたが、機銃掃射にあい右手と右足を負傷してしまいました。その時、砲台の下にいた陸軍の軍曹が飛び込んできて、止血し包帯を巻いてくれました。任務中に交流があった人でした。
受傷した時は、母親の「戦死するのは仕方がないが、怪我をしたら家へは帰ってくるな」(大変な苦労をするからそんな姿は見たくない)という言葉を思い出したそうです。軍医から骨は大丈夫だと言われ、これで家へ帰れると安心したそうです。収容された父島の野戦病院は空襲をさけるために掘った横穴式洞窟で、設備も十分でなく不衛生で、昼はシラミ、夜はノミが発生し、これが傷の痛みよりも苦痛だったといいます。
2月に受傷し、4月に病院船「菊丸」で横須賀海軍病院へ搬送され、リハビリと訓練を受け、退院することができました。
戦後、新聞記者として
帰郷後、戦後の食糧事情が悪い中、父親が栄養失調で死去したため、一家を支えなくてはならない現実に直面しました。勉学の途中で徴兵されたため、昼は大学へ通い、夜は新聞社の写真整理係として働く生活を送っていました。その後、能力を評価されて新聞記者となり、結婚して子供にも恵まれました。
晩年、自分にとって戦争は一つの転機だったと振り返っています。「本当は勉強を続けて弁護士になりたかった。その夢は叶わなかったけれど、戦死せず生かされてきたので、国や社会のために貢献しなくてはならないという気持ちがあり、今日までやってきた」と語っています。
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徴兵前は法学を学んでいた大学生で、几帳面な日記からその一面がうかがえます。
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