海軍へ志願
この方は1942(昭和17)年9月、15歳の時に佐世保海兵団へ入団しました。海軍は陸軍より若い年齢で志願でき、軍隊へ入れば家に負担がかからないと考えたことがきっかけでした。入団後の訓練は厳しかったそうですが、「若かったし、子どもだから遊び半分だったんじゃないか」と振り返っています。
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船団護衛のための海防艦へ乗船
館山砲術学校で訓練を受けた後の1944(昭和19)年、海防艦へ配属されました。鹿児島から台湾の海域の船団を護衛する役割でしたが、艦は老朽化して、鉄板も薄く、のろのろと運航していました。それでも、自分の乗っている艦が攻撃されるとは考えていなかったそうです。任務は爆雷の運搬や大砲の角度を見張るものでした。その後、艦の任務は紀伊半島海域の防衛に変わりました。1945(昭和20)年7月、和歌山の由良港に停泊していた時に空襲を受け、機銃掃射で手と腹部を負傷しました。受傷の瞬間は身体が大きくねじれるような衝撃だったそうです。ふと見ると自分の右手は皮1枚で繋がっている状態で、垂れ下がった右手を左手で持って、艦長へ報告に行きました。下がれという命令で、衛生兵の応急手当をうけ、攻撃の合間をぬって陸まで運んでもらい、大阪の海軍病院へ搬送され治療を受けることができました。腹部は皮膚が裂け、腸が飛び出た状態になっていて、手の傷よりも重傷だったことを病院で知りました。まだ18歳だったので、病院では看護婦から「坊や」と呼ばれていました。
戦後を片腕で生きる
終戦後、義手を作ってもらうことができましたが、なかなか馴染まなかったそうです。帰郷後は、手が無いので実家の農業を手伝うことも、健常者と同じ雇われの仕事もできずにいたところ、同級生からをやらないかと声をかけられたことから、畳表の職人となりました。片腕がないけれど、自分の考え方ひとつ、自分で考えて、何事もする。両手のある人と同じような仕事ができるよう負けないようにやってきたと、晩年に振り返っています。
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