【お知らせ】しょうけい館は2・3階です。他の階はオフィスとなりますので立ち入りはご遠慮ください。

あこがれの海軍へ

 この方は1944(昭和19)年16歳の時、海軍に志願しました。きっかけは、ある種のあこがれだったと言います。学校で海軍志願兵募集の掲示があり、親に内緒で試験を受けました。採用通知が家に届いた時、母親は「(うちの子は)まだ子供なのに、何かの間違いではないのか」ととても驚いたそうです。
その後、大竹海兵団での訓練を経て、潜水学校へ進み、魚雷の管理、手入れや発射の訓練を受けて1か月ほど経った時に緊急命令が出され、訓練の途中で出動することになりました。ただちに戦艦「伊勢」に配属となり出港、初めての戦場はフィリピンのレイテ沖でした。

17歳 「伊勢」乗艦中に受傷

 乗艦した「伊勢」は、その後シンガポールやインドネシア方面へ物資輸送をおこなっていました。1945(昭和20)年7月、広島県呉の音戸沖に停泊中、攻撃にあい爆弾が艦橋に命中、衝撃で身体は空中に投げ出されてしまいました。その時はやられたとは思わず自分の配置に戻ろうとして、何とか機銃の位置まで戻りましたが、出血多量で意識が遠のき、気が付いた時は呉の病院の中でした。お母さんの「しっかりせんか!」と叱るが夢で聞こえて意識が戻ったそうです。
 攻撃で、両目、左胸、右肩、左腹を受傷、何度か手術を受けましたが、左眼は失明、摘出となってしまいました。終戦後、東京のよい先生に診てもらえば、右眼が見えるようになるかも知れないというすすめもあり、国立第二病院(旧海軍病院)へ転院、手術で一時は見えるようになったものの、両眼失明となってしまいました。

戦後を生きる

 戦後、国立第二病院では患者団体が結成され、待遇の改善運動をおこなっていました。自身も患者団体に参加、失明者のための更生施設を東京に設立するために運動をおこしました。運動は実を結び、国立東京光明寮が設置され、第1期生として入所することができました。寮では、鍼、灸、マッサージの資格を取得することができ、帰郷して鍼灸マッサージ業を始めました。
 帰郷後は、障がい者福祉団体や地域の青年団など、様々な運動や組織の立ち上げに尽力しました。推されて失明傷痍軍人会の事務局長にもなりましたが、高齢化で仲間が次々に他界していく中、「何も残さずにこの世を去るのは惜しい、平和を大切にするために自分たちの体験を残そう」と思い至りました。点字で書き、テープに声を録音して、と方法を提案して、失明者仲間の体験記『戦争失明者の自分史 心に光を求めて』の発行が叶いました。

「卯の花句集」
会長を務めた視覚障がい者団体の句集。本人も多くの句を寄せています。
Related Contents

展示