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海軍の志願、徴兵

 海軍は陸軍に比べて採用人数が少ないことから、平時は志願兵を中心として構成されていました。志願できる年齢は兵種によって異なり(15歳~16歳から。陸軍は17歳から)、5年間が兵役期間でした。志願兵で充足できなかった定員は徴兵によって補われました(兵役期間は3年間)が、1941(昭和16)年に志願年齢が引下げられ、満14歳から少年兵として入団することができるようになりました。

海軍の兵種

 海軍の兵科には、水兵、飛行兵、整備兵、機関兵、工作兵がありました。入団後、初年兵として基礎教育や訓練を受けたのちに、自分の希望や適性判断を経て、専門的な兵科に進み、教育訓練を受けて実戦配置となります。しかし、太平洋戦争が始まると、戦況の悪化にともなって人員の不足が生じ、十分な訓練を受けないまま戦場へ派遣されることが常となりました。戦闘での直接的な受傷だけでなく、訓練での事故なども受傷の原因となりました。
各兵科の兵士とともに看護科の衛生兵も戦場での任務にあたりました。戦況の悪化は、医薬品、物資、設備の調達や運搬に影響を与え、本来の環境が整わない中での傷病兵の救護、収容活動を強いられ、その活動は困難を極めていきました。

傷病兵の救護・収容の流れ

 傷病兵の救護・収容体系は、原隊復帰を基本としており、けがや病気が回復した兵士は再び元の部隊へ戻ることになりますが、重症や長期の療養が必要とされた者は内地の海軍病院へと運ばれました。この流れは陸軍と同じです。
艦船内には治療所が設けられており、それが最も身近な医療機関でしたが、重傷であったり、艦が沈没、航行不能になったりした場合などは、移送もままならないことや、長時間救助を待たなければならないこともありました。このほか地上部隊や航空隊、設営隊等には病室が設けられました。

特設海軍病院

 南方進出にともなって、主要方面には特設海軍病院が設けられるようになりました。南方地域では、マラリアやデング熱などの感染症が蔓延したため、戦病患者も多数収容されることになりました。戦地では食料自給などが求められ、傷病兵だけでなく、衛生部員も困難な状況に置かれるようになりました。連合国軍の攻撃により機能喪失に陥った病院や、玉砕によって壊滅した病院もありました。

病院船

 病院船は医療設備を整えた船で、傷病兵や医薬品の運搬を担っていました。海軍病院船では、「朝日丸」、「丸」、「橘丸」、「高砂丸」、「氷川丸」などが知られています。

海軍病院

 海軍病院は、軍港等の海軍基地に設置された病院(第一種)と、慢性化した患者を治療・療養させるための病院(第二種・第三種)がありました。1940年頃には日中戦争の傷病兵で既に病床が不足しており、太平洋戦争期に病院や分院等が増設されるようになりました。しかし戦況は悪化の一途をたどり、日本本土が空襲を受けるようになってからは軍事施設が攻撃目標となりました。特に太平洋側の主要な海軍病院は、軍港や基地に設置されていたため、病院での医療活動は困難になっていきました。1945(昭和20)年に入ると、赤十字病院や民間の温泉施設を接収して海軍病院の施設とし、舞鶴海軍病院をはじめとして日本海側の病院へ患者を疎開させるようになっていきました。

 帰郷後、戦後の食糧事情が悪い中、父親が栄養失調で死去したため、一家を支えなくてはならない現実に直面しました。勉学の途中で徴兵されたため、昼は大学へ通い、夜は新聞社の写真整理係として働く生活を送っていました。その後、能力を評価されて新聞記者となり、結婚して子供にも恵まれました。
晩年、自分にとって戦争は一つの転機だったと振り返っています。「本当は勉強を続けて弁護士になりたかった。その夢は叶わなかったけれど、戦死せず生かされてきたので、国や社会のために貢献しなくてはならないという気持ちがあり、今日までやってきた」と語っています。

横須賀海軍病院(神奈川)
海軍軍医学校(東京)
亀川海軍病院(大分)
舞鶴海軍病院(京都)
病室の様子
療養生活の様子
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