2018年9月11日(火)~2018年12月27日(木)まで、1階にてミニ展示を開催しています。今回の展示資料は、自作の義足「人足機」の優秀性を証明するために、鹿児島から東京までの歩行試験を行い、154日掛けてそれを成し遂げた酒井要さんの記録資料です。
酒井要さんと人足機
酒井さんは、昭和19(1944)年に中国の戦闘で、戦車の下敷きとなってしまい、右脚の膝から下を失ってしまった戦傷病者の方です。戦後は東京で織物工場を営みながら、支給された義足に頼った生活を送っていました。しかし、日ごろから義足の使い勝手の悪さを感じていたことと、ある時旅行先で足の不自由な子どもが体に合わない義足を使っているのを見たことから、全ての人にとって使いやすい義足を製作しようと決意しました。昭和48(1973)年、好きだった酒を断ち、別府の旅館の一室にこもって、図面を引いては破る日々を繰り返しました。そうした苦心を3年間重ねた末、遂に出来上がったのが「人足機」です。人足機は、足首や膝の動きが柔軟で、自然な歩きが出来るよう設計されており、加えて座る時に便利な、ボタン操作一つで膝が折れ曲がる仕組みも備えていました。
人足機による歩行試験
義足にとって使いやすさは確かに重要ですが、耐久性も兼ね備えていなければ実用性があるとは認められません。そこで酒井さんは、自らの体をもって人足機実用化のための歩行試験を行うことにしました。遠く離れた鹿児島県から自宅のある東京まで、実に2000km(義足の耐用年数5年に相当)に及ぶ道のりを歩いて証明しようというのです。
昭和51(1976)年1月6日、鹿児島市役所を出発した酒井さんは、1日10キロを目標に歩みを重ねて行きました。道中では、その日の出発地点と到着地点、その他経由地点にある社会福祉事務所や駅、警察署、郵便局などの施設から署名を貰い、『歩行帳』としてまとめていきました。これは、人足機の有用性を厚生省に認めてもらうための証拠として作られたものですが、その署名の数々からは、この挑戦の背後に多くの人々からの支援があったことがうかがえます。
途中、故障や体調不良などのトラブルにも見舞われましたが、同年6月7日、遂に目標地点であった東京都大田区の蒲田警察署に到着しました。日数にして154日、歩数354万4000歩に及ぶ偉業でした。
その後は、人足機訓練所の設立を考案したり、特許の取得を目指したりしていたようですが、具体的に何か活動したという記録はなく、現在では訓練所の実現も、特許の取得も残念ながら果たされなかったという事実しか分かっておりません。しかし、自ら考案した義足で、2000kmにも及ぶ歩行試験を成し遂げたという事実は、『歩行帳』や当時の新聞記事から明らかです。『歩行帳』には、義足開発に心血を注いだ酒井さんの思いが、次のような言葉で残されています。
「虎は死して皮を残し 私は死して人足機を残す」