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「遥かなる故郷」(13分47秒)

 荒涼たる満洲の大地、うち続く戦闘、本隊合流を目指し山野をゆく兵士たち。本作品にあっては、その苦難に満ちた道行きが、証言者の受傷経験や苛烈な収容所体験と相まって語られます。炭鉱会社の管理職員だった証言者は、昭和19年2月、入隊します。そのゆく先は満洲、ソ連との国境地帯の警備が任務でした。翌20年8月には、対日参戦したソ連軍との激戦に身を投ずることになります。そして8月13日、証言者は銃撃により左手首を受傷します。その時、自決をも覚悟したといいますが、同行する初年兵ともども、本隊との合流を目指して山野を進む道を選びます。しかし9月3日、証言者たちはソ連軍に拘束され、シベリアの収容所へと送られます。そこでは苛烈な強制労働のもと、数え切れない戦友の死に直面したといいます。その後、昭和21年12月に至り、証言者は念願の内地帰還を果たします。復員後、証言者は元の職場に復帰しますが、自らの受傷については語らなかったといいます。一切、触れなかったといいます。それは、障害を理由に他人には負けたくはない、ということのみならず、異郷に眠る戦友や、より重度の傷病を負った者たちへの、絶えざる思いあってのことでした。

「平和の光を見つめて」(13分46秒)

 本作品にある幾葉かのモノクロ写真が、その瞬間を正確に切り取っていまに伝えています。昭和19年8月、弱冠16歳で志願の入隊を果たした少年は、寄せ書きに埋め尽くされた日章旗や鉢巻とともに、勇躍出征を遂げました。ゆく先は満洲。時に17歳の昭和20年1月、それが若き日の証言者でした。その後、実際の戦闘を経験することなく終戦を迎え、昭和21年1月、金州での強制労働中に不慮の事故に遭遇。この時、片眼の視力を失った証言者は、未だ二十歳に届かぬ青年でした。受傷は青年をして苦悩の淵へと追いやりました。しかし、それを救ったのは、他でもない父親でした。昭和22年の復員後、父親の勧める職場に身を投じ、日々の仕事に価値を見出した証言者は、障害を克服して生きる道に目覚めます。そんな証言者にとって、やはり心の片隅に残るのは亡き戦友たちのことでした。「死んだ人は残念ながら語れない」という証言者はまた、実際に語れるのは生きて帰った傷痍軍人であるともいいます。いま証言者は、平和の語りべとして、日々その言葉を実践しています。

 

 本作品にあっては、戦傷病者を支えた妻と家族の労苦が、証言者としての娘によって語られます。昭和12年8月の結婚後まもなく、証言者の父親は二度目の出征を遂げます。その後、中国各地を転戦し、14年4月に至り、山西省臨汾近郊での戦闘に加わります。しかし、手榴弾の破片を顔面に受け、収容されます。両眼の失明を自覚したのは、内地へ還送されてからでした。以後50年余、ひとり、光の届かない世界に身を置くこととなった父親。その間、見えないことに由来する様々な葛藤に悩まされつつも、妻の助けを得て故郷で農業を始めます。ことさら自らの障害に触れることも、心中を語ることも少なかったという父親でしたが、証言者が嫁ぐ日、親族の前で静かに胸中を語ったといいます。いわく、「戦争さえなければ、目が見えなくなることもないので、おまえの花嫁の姿を見られた」と。この言葉に、周囲はみな黙ってしまったといいます。また、「三人の子ども達の顔がやはり一度は見たかった」と。そんな父親と、それを支える母親とを真近に見続けた証言者の語りは淡々と進みますが、父の「無念」を知るがゆえに、その語りには限りない重みがあります。

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2007年